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ニッパーダイを読みながら14

古い世界のなかでは、ユダヤ人は独自の集団として、 職業の選択も滞在する権利も、厳しく制限され、 中世的な、ほとんどゲットー的なあつかいを受けていた。 ユダヤ人が一連の宗教的な慣行を放棄し、 いわゆる「民族性」を放棄することが、真の公民となるための条件として要求された。 障害や後退があったにもかかわらず、全体とすれば多くのユダヤ人にとっての、 法的な条件ー生業に対する制限の撤廃、 学校への受け入れ、居住権の付与、等は改善されていった。 1815年頃には、君主に金を調達する、 ロートシルト家のような銀行家を中心として形成された、 裕福で教養のある「市民的な」ユダヤ人の数は、ごく少数に過ぎなかった。 1840年代から、ユダヤ人は貧窮から脱却して市民化し、 経済的・精神的な上層、あるいは中の上の階層へと、かなり力強い上昇を遂げた。 市民化したユダヤ人の社会的な構造は、非ユダヤ人のそれとは異なっており、 商業・金融部門が支配的な位置を占めていた。 この市民化のプロセスは、ユダヤ人のドイツ化のプロセスが伴っていた。 ゲットーの壁が崩れると、伝統の力が弱まった。 目指されていたのは、モーゼの教えを守る国民的で自由主義的な思想を持つ市民、 「ユダヤ教を信奉するドイツ公民」となることだったのである。 改革派ユダヤ教は、カント的に解釈された「純粋」な宗教を土台とし、 伝統的な生活形態から離れ、ユダヤ人の中世、 ユダヤ人の独特な「民族性」と決別するのを土台として、 自らを刷新しようとする試みに他ならない。 市民的なユダヤ人たちにとって、哲学的=自由主義的に解釈された彼らの信仰は、 一つの宗派となったのである。 1815年のウィーン会議から1848年の3月革命までの30数年間を指す、三月前期には、 多くのユダヤ人は保守的であったが、 1848年以降からは自由主義を支持するようになる。 1870年代に至るまでの時期については、 ユダヤ人と自由主義とはパートナー関係にあったと言われる。 社会主義者の占める割合も高かった。

ニッパーダイを読みながら13

貧困は、かつてのように自然と神によって与えられたものと見なすことはできず、 社会の病として語られるようになった。 労働者が、市民的な社会の均衡と秩序を脅かし、 共産主義が広まれば、いっそう脅威となる、と意識されるようになった。 ヘーゲル以降、疎外の問題ー分業と機械による生産における、 無味乾燥で、自動的で、感情を鈍麻させる労働ーが好んで採り上げられる問題となっていた。 保守主義者たちは、「ブルジョアジー」を告発する傾向が強く、 自由主義者たちは、無能な国家や封建的な状況を非難する傾向が強かった。 ノスタルジーに駆られて、最も貧しい者でも、ヒエラルヒーと調和に基づいた、 確固とした秩序の中に自らの居場所を持っていた「古き良き時代」を対置し、 共同社会を、利益社会に対置することもあり得たが、 しかし、技術と経済の変化はもはや元に戻し得ないという認識が出発点とされていた。 「社会保守主義」と「社会自由主義」という二つの類型がある。 社会保守主義者は、カトリックであれ、プロテスタントであれ、 ロマン主義的な反自由主義的な社会観を出発点としている。 彼らの目から見れば、結びつきを解消する、社会を機械的にアトム化する「自由主義」は、 個人の自律性と自由を信じているが、それは新たな専制と奴隷制に通じるだけなのであり、 無神論は利己主義を解き放って、社会問題を生み出しているのである。 そうであるとすれば、肝心なのは、流動的で市民的な業績社会・階級社会を解き放った行為を、 国家が撤回することであり、農業的・手工業的な社会を強化することである、と。 しかしながら、そのように過ぎ去ってしまった世界を指針とする姿勢は、 当然のことながら、ユートピア的な性格を帯びざるを得なかった。 宗教は、労働者を「奉仕」の習性で満たし、 彼らを「道徳」と「勤勉」によって強め、 「変化中毒症」から護り、彼らを「身分なき身分」とは区別して、 社会の中の真の身分にするべきであると主張した。 聖職者が指導する下での労働者の社団が望まれ、 聖職者が、議会で議席と投票券を持って、労働者を代表するべきだと主張した。 「社会カトリシズム」は労働者保護に関して、 物質的な生活条件と賃金に、国家が影響を及ぼすべきだと考えた。 プロテスタントの保守主義者は「財産を持たない労働者」を、 「労働する財産所有者」に変えることを...

ニッパーダイを読みながら12

ニッパーダイによると、大衆貧窮の原因は、産業化された工業にあるのではなくて、 経済が停滞していて、労働力への需要が停滞していた状況で、 人口が増えたことにあった。 産業化された工業は、働き口を減少させるのではなくて増大させた。 しかし、産業化や輸入による競争、労働力の過剰という圧力は、手工業を圧迫し、 働き口を壊滅させた。 1845年から、さらに飢餓危機のなかで、しばしば暴動がおこり、 暴動はすべて軍によって鎮圧された。 しかし、各種の報告や調査は、大衆貧窮の凄まじさを白日の下に晒した。 慢性的な不完全雇用状態が起こっていたのである。 雇用と収入は不安定で、危急の場合に備えて節約するのは、収入状況から見て不可能であった。 下層民はその日暮らしを送っていたのである。 身分も土地もツンフトも持たない下層民は、伝統的な身分制秩序の規範から転げ落ち、 急進的な哲学者たちは、それを疎外という概念で説明した。 伝統の拘束から解き放たれることは、解放を意味したが、 しかし困窮には、モラルを衰弱させるという傾向も伴っていた。 社会的なヒエラルヒーのなかで、自分を従属的な存在と位置付けるのを自明なことと考える、 伝統的な考え方が依然として支配的であり、 彼らの規範はなおもキリスト教から決定的な影響を受けていた。 これに対して、社会問題を解決するという自由主義的、革命的なスローガンは、 市民階層の知識人たち、次いで外国に旅した手工業職人たちによって唱えられたが、 下層民に属するものではなかった。 このような下層民のなかから産業化の過程で、産業労働者が形成されてくる。 工場は、人間と時間との関係を革命的に変えた。 産業化以前の世界では、自然な時間が通用する。 一日の時間と一年の時間、天候と収穫・搾乳・炭焼き窯の見守りのような「自然」な仕事が、 時間を区分し、時間にリズムを与える。 どのような仕事であるかに応じて、一日は長くも短くもなる。 この時間のなかでは、労働と生活がほとんど分離されていない。 時間はまだ金になるに至っておらず、時間は近代的な意味では浪費される。 問屋制家内工業のシステムでは、待ったり、取りに来たり、運んだりするのに、 多くの時間が使われ、労働は不規則で、長かったり、短かったり、 早かったり、ゆっくりだったり、自由に定められていた。 製品が出来上がりさえすれば、そ...

ニッパーダイを読みながら11

ドイツの場合にも、19世紀の画期的な成果となったのは産業革命、 すなわち生産の技術的な革命化、経済関係の資本主義的な革命化、 機械と工場と市場と成長である。 技術は、自然から、自然が設定する条件から解き放って、 もはや、自然を模範するものをを生み出すのではなく、 新しいもの、すなわち工作機械と原動機械を生み出した。 木材に代わって、石炭と鉄が、人間の活動によって生み出されるものとなる。 石炭が、蒸気機関を通して、自然の動力である、人間と馬、水と風に代わる動力源となる。 労働の過程が分解され、したがって古風な「技」は重要性を失い、 発明はもはや偶然ではなくて、計画に基づくものとなり、 数量化と体系的な方法によるもの、最終的には科学に基づくものとなる。 人間は自然の支配者となり、自然を我が物とする。 新たな経営方針は、「生計を立てる」ことではなくて、 最大限の利益を得ること、貨幣と現物資産の全体、 すなわち資本をそのような意味で活用することを目標とする。 この経営は、合理的・計算的で数量化を好み、 もはや人間を中心とするのではなくて、完全に即物化される。 それは匿名の、誰とも知れない市場を相手とする。 経営する者は、他の経営主体と競争する関係にある。 このような競争こそが、近代的な「市場」を創り出すのである。 それは調和のとれた連帯関係ではなく、個々の主体それぞれが、 特殊で孤立していて、保護された経済圏のなかにいるといるというのでもない。 このような経営姿勢は資本主義的である。 プロテスタンティズムによる世界の脱神聖化が、 長い目でみれば、技術者や企業家の持つ革命的な力を助長した。 啓蒙絶対主義は、官職を利害から切り離し、官僚的な合理性を強化するとともに、 計算に基づく経営を可能にし、革新を敵視する古いツンフト(同業者組合)体制を打破した。 資本主義的な企業、株式会社がツンフト組織に取って代わった。 鉄道の大多数は株券を土台とした民間鉄道だった。 とはいえ、認可を与えるのは国家であり、その際に、路線の経路に影響を及ぼすことができた。 蒸気船と鉄道が初めて、株式会社の設立を強く要望するのである。 ナポレオンの時代に台頭した銀行家であるロートシルト家は、 フランクフルト・ウィーン・パリ・ロンドン・ナポリに居を構えていたが、 彼らはメッテルニヒの復古政策の資金を調達...

ニッパーダイを読みながら10

人びとがどう振舞うか、そしてそれを見張る村人の目といった、 これまでの慣習が、人々の態度を規定する。 そこから、保守的な側面、個人を前面に押し出さない側面、 感傷的でない即物的な側面が生じるのである。 慣習と家族と所有が、個人が規範から逸脱することを制限する。 新しいことを始めようとする人物、何事かを成し遂げようとする人物への反感には、 自分たちの世界を中心に考えようとする側面がある。 理念や原則、何かしら一般的なものではなく、 農家とは、農民の地域的な利害が、 世界に対する向き合い方の中心に位置しているのである。 農民の田舎じみた感覚、視野の狭さを、 知識人たちが雄弁に批判するのは、そこに起因する。 「国家」すなわち官僚制が、法律や、訴訟や、税金や、土地の収用(道路や鉄道の建設に際して)、 などの形を取って、「公益」が村にとっても利益になることを理解させる。 村は国家の世界に抗いながらも、その世界に次第に巻き込まれていくのである。 1848年の蜂起は、封建的体制に矛先を向けており、民主主義に接近していたけれど、 経済的=社会的な面では、農民たちの要求は保守的なものであった。 すなわち、彼らが求めたのは、生産性の向上と競争を旨とする資本主義経済ではなくて、 「正当な最低限の生活」を保障してくれるモラル・エコノミーだったのである。 それゆえ、農民たちはは反ユダヤ的で、反都市的だった。 自由主義や民主主義の合言葉ー市民権・憲法・国民ーは、彼らの琴線に触れるものではなかった。 彼らは「普遍的」身分としての解放的なプログラムではなくて、利害を主張した。 ある程度まで、彼らは左翼や右翼といった区別を超えるところに位置していた。 マルクスとエンゲルスは、農民は自分たちの局地的な利害のことしか、 念頭にないから、保守主義だと考えていた。

ニッパーダイを読みながら9

「農業は、植物由来あるいは動物由来の物を生産することを通して、利益を生み出し、 あるいは金銭を得ることを目的とする職業である。」 それは、資本主義的な経済観であり、 収益・採算性・利益の最大化・即物性・計算性といった新たな現象を伴っていた。 それは、アダム・スミスの精神に沿って確立された、農業経営学である。 農村部には、大農場主・農民・農業労働者という3つの階級があった。 大農場領主は、農業起業家としての大農場主に、 生まれに基づく身分から、所有に基づく階級に変化した。 大農場は動産化したのである。だから売却ができるし、所有者も変えられる。 1850年代までは、騎士農場主の50パーセント近くが、市民出身となっていた。 経営の仕方という点で、新たな階級全体の「市民化」が起きたのである。 とは言え、貴族の側は1848年までは、市民階層の出身者を、 政治的な機関から追い出そうと努めた。 長い時間をかけてようやく、彼らは統合され、 ある程度まで受け入れられるようになったのであり、 部分的には、市民は後に貴族に叙されたのである。 とは言え、新たな農業起業家たちも、「騎士」であることに変わりはなかった。 封建的特権の名残が、残存していたのである。 免税特権・狩猟権・領主裁判権・地域の警察権などである。 1837年になっても、住民の3分の1は、 国家ではなく、騎士の裁判権の下にあったのである。 さらには教員や聖職者を選任する「保護権」、村長を任命する権利があって、 農民による自治行政は、発展させられることができなかった。 従順でない者は、貴族が杖で打ち据えるというようなことが、依然としてしばしば起こった。 封建的な優位と資本主義的な優位、 そして、それぞれに伴う利益獲得のチャンスとが、1つに結びついていた。 1848年の革命は、狩猟権や領主裁判権のような、封建的特権の一部を撤廃し、 一時的には、1856年まで、大農場主の警察権も廃止した。 自由主義的な政府は、地方自治制度の革命を計画して、 村を、騎士農場主の支配から解放することを目指し、 そして1850年になっても、官僚主導の反動政府は、「脱封建化」を目標として掲げた。 しかし、それも三月革命以前の状態への復帰を求める反動の前に挫折した。

ニッパーダイを読みながら8

住まいのあり方は、階級によって分かれる。 労働者は「悲惨な」「賃貸用アパート」、 狭苦しい空間と粗末な設備によって、特徴づけられていた。 芸術家や文人は、1830年代頃からは、 もはや主として宮廷社会ではなくて、市民階層の家で交流するようになる。 1800年頃の農村では、自給自足が通常のタイプだった。 次第に、食糧の商業と購入が決定的な意味を持つようになっていく。 1年の長いリズムに基づく自家供給が退けられていき、週単位の供給に切り替えられた。 購入と金による供給は交換を早めることを可能にし、 商業はより多くのものを提供するようになる。 飢えとカロリー不足は、1850年代に、大衆貧窮が終わりを迎え、 下層の人々の間でも、砂糖と肉の消費量が増えていく。 しかし労働者の食事は、市民階層のバランスのとれた栄養状態の下限部に位置していた。 労働者世帯は、依然として収入の50~80パーセントを、 食物に支出しなければならなかったのである。 看護の分野は、カトリック修道会の修道女や、 プロテスタントの社会奉仕団を通して、専門職化されていった。 国家は、健康への権利に配慮しなければならなかった。 共同体は、個人の財産とは関わりなく健康を保つための、 諸条件を配慮する義務があるのである。(上下水道の整備による衛生面改良など)。

ニッパーダイを読みながら7

どのようなタイプの家族にとっても、離婚は法的には、 (プロテスタントの場合には教会法的にも)可能だったけれども、 例外的なケースに留まっていた。 外部からの歯止めと、内面化された結婚モデルとが、 情緒的な個人主義や「ロマンチック」な恋愛に伴う、主観的な感情の変化を抑止していた。 家族は、言わば自明なものと考えられていたのである。 下層の人々の家族では、家庭を築くうえで法的・経済的な障害が存在していた。 農村での家内工業の広がりと、農業労働者としての働き口の増加が、 家庭を築く新たな可能性を生み出して、 日雇い労働者や小作人の家族という古いタイプを拡大した。 また、子供が生まれるのは、働き手が増えるということをも意味したのである。 プロレタリアに関しては、家庭を持たないことを強いられるという生活形態があった。 ロマン主義的な恋愛観は、友情と官能との二元状態を、 エロチックな結婚において解消しようとした。 逆に、女性の理想化と家庭への集中が、セクシャリティを抑圧し、 女性から厳しく官能を遠ざけた。

ニッパーダイを読みながら6

ロマンチックな恋愛は、物質的な重荷を負うことが少ない、 「上層」階級のみに限られた。 二人の出会いは、何かしら運命的なものであるのであり、 一目見ただけで陥った恋、運命の糸で結ばれた二人、 至上で絶対的なる恋、愛する人の完全無欠さ、大いなる情熱、エロチックな吸引力が加わる。 結婚は、「客観的」なもの、両親が環境や神によって相手を定めるものではなく、 「愛情」、自らの主観的な決断に基づくものとなったのである。 死は、キリスト教徒としての裁きと救済に目を向けた「私の死」としてではなく、 愛する代え難い家族の一員の死、「他者の死」「愛しい人」の死として経験される。 死は、公的な領域から私的な領域へ、 自然と神によって定められたものの甘受から、深い喪失感と取り残された悲しみへ、 儀式から、もはや形式化しえない哀悼へと移動する。 裁きと復活ではなく、天国で「再会」することが、新たな終末論の内容となるのである。 家族の各個人の墓が、ロマンチックに一か所にまとめられ、 墓石の前に、家族のメンバーが故人を偲びながら集まるという、 新しい墓地文化が浸透していたのである。 市民階層の妻は、以前よりも自由な立場を獲得する。 古典主義とロマン主義の理想のなかには、感情に対して敏感な側面があり、 例えば、家父長主義に比べれば、近代的な傾向を帯びている。 妻は以前よりもパートナーと見なされ、妻に配慮することが一つの新たな美徳とされた。 妻は、経済的な負担を軽減され、余暇が増え、教養が向上し、 会話のパートナーとして、役畜のように扱われたり、 母親としてだけ扱われたりするのではなくて、個人として扱われるようになった。 ロマン主義者たちは、女性の個体性を強調し、 散文的なシラーが、貞淑な「主婦」を理想としたことを嘲笑して、 まさに神秘的なまでに女性を賛美する。 1815年以降になると、教養の重視が、男女の区別を強調することにも繋がっていく。 なぜなら、職業と政治のために必要とされる男性の教養は、 若い女性に求められる教養とは異なるものだったからである。 新たな意味で、妻は夫に服従させられるのである。 この見解によれば、妻は内に向かって、家族のために生きるのであり、 世の中に乗り出すことはなく、夫のように「冷静な」合理性を持たず、 ナイーブで、あれこれ考えを巡らすことのない存在と見なされた。...

ニッパーダイを読みながら5

18世紀のドイツでは、近代的な家族という制度が成立する。 この革命的な変化は、まず市民階層から始まって実現する。 旧世界では、子供の死亡率が高く、結婚した相手の死亡率もかなり高い。 平均的な結婚期間は20年と短く、死が結婚期間を短縮しているのである。 孤児や再婚は当たり前のことであった。 結婚は、家を持つことと結びついており、市民層でも労働者層でも、 結婚する前に金を貯めなければならず、結婚年齢は比較的に高かった。 旧世界では、子供たちは14歳頃に奉公のために家を出た。 自宅では、奉公人や職人、すなわち下働きをし、ともに働き、修行している、 家族以外の人間が生活共同体としての「家族」に属していた。 このような家族は、生活共同体であると同時に、生産共同体でもあった。 もっとも、これらの家族の場合にも、核家族へと収束していく傾向があった。 すなわち、都市では老人や未婚者が外に出されていくようになり、 職人が、そして後では徒弟が、しだいに手工業者の所帯から離れていき、 大規模な農民のばあいでも、主人と奉公人が分かれて住むようになった。 農民や手工業者の家庭は「私的」なものとは言えず、 隣人や同業組合(ツンフト)仲間や牧師・司祭の目に晒されていた。 家族のあり方が社会的に監視されていたのである。 大都市が社会的な監視を緩めるようなってようやく、家族は私的で隔離された存在となった。 「市民的」で個人的な、新しい家族観を獲得するようになったのである。 配偶者の選択については、18世紀の後半以降、農民と手工業者の場合にも、 もはや親が一方的に決めるものではなくなった。 しかし、農民や手工業者の間では、ロマンチックな恋愛、個人的な愛情が、 結婚の動機として、特別な役割を果たすことはなかった。 実際的な能力があるか、財産があるか、世話をしてくれるか、 互いに折り合えるか、といった点が決定的な意味を持ったのである。 昔ながらの見解によれば、愛情は結婚の前にあるのではなくて、 結婚とともに愛情が芽生えてくるものとされた。 無秩序で不道徳な男女の出会いは、官僚たちから敵視され、 最終的には、学校と人びとの流動化と産業化によって、力を奪われていった。 結婚は、宗教的に、教会による結婚予告、祝別、教会記録簿への記載、 家族への祈祷を通して、是認された。 まさに結婚において、人は、...

ニッパーダイを読みながら4

国家による大学というモデルは、教会ではなく、大学とは世俗的な機関であるということである。 聖職者の特殊な権利は、法の平等という観点から廃止される。 国家は聖職者のポスト、とりわけカトリックに関しては、 司教職への任命に多大な影響を行使した。 聖職者の養成教育は国家が扱う事柄とされ、教会の財政は国家によって規制された。 神秘主義や狂信主義は排除されるべきであった。 国家は礼拝や行列行進を行う回数と時間を定め、 教会の鐘を鳴らしたり、奇跡について説教したりするのを禁止した。 それらは、封建勢力と闘ううえで国家を強めた。 世俗化された教会は、脱封建化した。 高位聖職者はもはや貴族の独占するところではなくなった。 ナポレオン法典は封建的な社会を自由な所有者から成る社会に変容させるものであって、 土地領主制を撤廃するものだった。 しかし、封建的な権利と収入の撤廃は、法典が財産を保障している以上、 何らかの保障と結びついていた。 ナポレオンの貴族政策が、徹底した社会改革を阻んでいた。 貴族たちの権利は明確に保障されていたのである。 法治国家はリベラルとも言える。 個人主義と競争を解き放つという経済的・社会改革もリベラルと言える。 ナポレオン敗北後、メッテルニヒは勢力均衡と、 ナポレオンが皇帝に留まるのが、最も好ましいと考えていた。 しかし、ナポレオンは革命によって征服した地域を放棄することができなかった。 1814年、パリは連合国によって占領された。 25年間にわたった動乱は終わり、革命時代の後に、ヨーロッパに新たな秩序をもたらすことが、 ウィーン会議に与えられた任務だった。 ヨーロッパの貴族たちは、自らの世界が脅かされるのが終わったことを祝ったのである。 求められたのは、勢力均衡がもたらす秩序であり、諸国民の自由と自己決定に基づくのではなくて、 諸国家と諸王家の正当性に基づく秩序に他ならなかった。 ドイツにおける憲法制定要求においては、近代的な市民的=立憲主義的な契機と、 伝統的な身分制的=貴族支配的な契機とが、 依然として未分化のまま併存していた。 憲法は、自由主義的な意味を持つことがありえたし、 保守的・国家主義的・身分的な意味を持つこともあり得た。 ブルボン家が復位したことで、フランスの立場は急速に改善された。 イギリスもロシアも、和解と勢力均衡とフランス国内...