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ニッパーダイを読みながら23

1830年のパリの七月革命は、プロイセンとオーストリアに直接的な影響を与えた。 この革命は、ヨーロッパ全体に騒乱を引き起こした。 ベルギー革命は、ベルギーをネーデルランド連合王国から独立させた。 七月革命は、イタリアの一部に、ベルギーに、ロシア領ポーランドに波及する。 ポーランド人の運命に、自由主義的なドイツ人は同情し、 ドイツ人自身の運動を発酵させることになる。 北ドイツと中部ドイツでは、憲法を持たない幾つかの邦で、 憲法制定運動が起こった。 民衆による暴力革命、労働者や農民による抗議運動が広がった。 民衆の怒りが向けられたのは、税負担と封建的賦課、官僚支配、 警察支配と汚職、関税同盟以前の状態にあった、関税境界と関税負担などであった。 カッセルの市議会は「差し迫っている貧者の有産者に対する戦争」を、 回避するための憲法が必要であると宣言した。 市民と農民が多数を占める一院制、相対的に民主的と言える選挙権、 官吏と軍隊の憲法への宣誓、憲法を順守するという君主の誓約、 議会が法律を発議し、予算を決定し、「緊急令」を裁可し、大臣を告訴する権利、 基本権や司法制度や官吏の権利や、さらには市民防衛隊の保障、などを含んでいた。 「君主の玉座を廃止しなければ、祖国にとって救いはない」と主張され、 「ドイツ自由合衆国」が目標とされた。 彼らは解放された諸国民の国際的な連帯、 ナショナリストたちのインターナショナルを信じていた。 1832年以降、プロイセン政府による反動は激しくなり、 監獄で自ら命を絶つ革命家、ドイツを離れる亡命者、 職を解雇される教授たちが現れた。 左派の場合には、逮捕や地下活動や亡命がつきまとい、 自由な公共の場での議論という雰囲気の中で活動が行われることは決してない。 そのような環境の中で、政党は形成されていくのである。 ブルジョアジーとは大市民のことであり、 中程度の市民階層とは、教養と財産という基準によって階層化されている。 1815年からの30年間に、市民階層は興隆し、 学問・教育・芸術の分野で市民的文化が開花し、 成立しつつある資本主義世界のなかで、市民的な生活形態が開花していた。 批判的知識人たちは、市民階層を疑問視していた。 国家は市民階層に敵対した。 例えば、メッテルニヒのような反動派がそうである。 批判的な知識人は、急進的な言動...

ニッパーダイを読みながら22

プロイセンの官僚たちは、アダム・スミスの信奉者であり、 国際的な分業体制を信じており、競争は経済的進歩につながると考えていた。 したがって、プロイセンは関税をなくしていく方針をとった。 この関税政策は、市民的社会の利害を尊重し、憲法政策でもあった。 しかし、個別邦、たとえばバイエルンは、 権力と主権の不当な喪失を意味すると考え、関税をなくすことに反対した。 共通の関税政策を取るのは、難しいのである。 とはいえ1831年に、プロイセン、バイエルンなどは、 一つの関税体制に合同し、それは「ドイツ関税同盟」と名付けられた。 この関税同盟は、オーストリアのメッテルニヒにとっては、 「国家の中の国家」のようなものであり、 プロイセンを強化して、プロイセンの覇権と結びつくものだった。 したがって、小ドイツ主義(多民族国家のオーストリアを排除して、ドイツが国民国家としてまとまること)の、 一種の序曲のような意味を持った。 この見方は必然的とは言えない。 ヨーロッパ共同体のように、プロイセンは、中規模諸邦やオーストリアと同様に、 国民国家的な統一へと向かおうとする傾向に反対し、 諸邦の主権を保護し、ドイツの国家連合的な構造を保障したのである。 もちろん、最大の経済力を持つプロイセンが覇権を握っていることに疑問の余地はなかった。 長い目で見れば、プロイセンのほうが解消の脅しをかけることによって、 他の加盟邦に自らの意思を押しつけることができたのであって、その逆ではなかったのだが、 しかし当初はそれほどの紛争が生じることもなく進んでいった。

ニッパーダイを読みながら21

鉄道と商業と産業が保守主義を崩していく。 憲法と機械が、その時代のポジティブな徴候なのである。 その憲法は、ナポレオンの時代における発展から生じた。 自由主義的な憲法は、個別邦、連邦の復古的な体制と衝突し、 全ドイツ、国民的な解決がなければ、成功を収めることが不可能だった。 自由は統一を必要としていたのである。 バーデンでは、議会と政府が対立し、 1841年に、議会は、政府が行っていること、 すなわち検閲、警察の措置などを憲法違反であると宣言した。 そこで大公は、議会を休会する。 議会は、この休会措置は憲法違反であると宣言した。 バーデンでは1846年に、自由主義派が勝利し、 穏健自由主義的な官僚の内務大臣が、指導的な大臣となり、 政府と議会多数派の間で、一応の協力関係が発展していった。 カトリックの政治運動と、急進民主主義的な左派に直面して、 双方が歩み寄ったのである。 自由主義者たちは、反対派として邦民の権利を防衛し、 政府に対してチェックする対抗勢力となることが、 自分たちの役割なのだという見方をとった。

ニッパーダイを読みながら20

オーストリアは、諸民族によって形成されていた。 ボヘミアのチェコ人、ハンガリーのマジャール人、 45パーセントを超える非マジャール人などである。 彼らの民族問題は、自由主義とぶつかりあうことになった。 オーストリアにとっての問題は、個人と国家という自由主義的な問題ではなくて、 民族性と国家という問題だった。 国家全体を代表する議会は、オーストリアにおいては、 一つの国民ではなくて、互いに異なる民族を代表した。 オーストリアは、他のドイツ諸邦以上に、ナショナリズムと自由主義に反対した。 オーストリアは封建的であり、財政がうまくいかなかったため、 ロートシルト銀行のような、金融界にますます依存するようになった。 したがって、経済危機が深刻になると、ポピュリスト的な反対派は、 絶対主義的な君主制と、ユダヤ銀行資本の双方に、同時に矛先を向けるようになった。 オーストリアでは検閲が厳しく、 ロマン主義派の知識人たちは、人びとを窒息させるような雰囲気に反対した。 「憲法が何であれ、行政が何であれ、ウィーン人の合言葉は娯楽だ」 それはメッテルニヒの政策の一つだった。 彼は社会を非政治的で私的な分野、娯楽へと追いやることを望んでいた。 シューベルトの文化はメッテルニヒの抑圧が生み出した産物ではないが、 しかし間接的に体制はそれを奨励したのだった。 とはいえ、警察と検閲は厳しかった。 どのような形の公共生活も、社会が自らを表現するどのような可能性も妨げられた。 禁止の政策は、批判と抗議を呼び起こした。 イタリア人とポーランド人は、オーストリアに支配されていた。 ハンガリーは、オーストリアの王朝の下での自治的な国家であり、 封建的な社会秩序の下にあった。 しかしウィーンに対して反対するマジャール人のナショナリズムが発展していった。 チェコ人のナショナリズムは、ロマン主義的な文化ナショナリズムとして、 当初はウィーンから奨励された。 しかし、ウィーンは、中央集権的、官僚的、絶対主義的であるからという理由だけではなくて、 ウィーンがドイツ的であるという理由で、チェコのナショナリズムは反対された。 スロヴァキア人が「主権を持つ民族」として、 歴史的・政治的な体制を演じうるとは思われていなかった。 オーストリアという多民族国家の存在は難しいものだった。

ニッパーダイを読みながら19

19世紀前半のドイツの君主制は、絶対主義、王朝的、家父長的、ではなく、 もはや宗教と伝統のみによって正当化されるのではなく、 その機能によって正当化された。 すなわち、君主は国家機関であった。 君主の行動は、国家機関の同意を得てのみ可能だった。 君主は市民的になったのである。 貴族も強力な影響力を持っていたが、近代的な国家にしっかりと組み込まれていた。 要するに、国家は、何よりも官僚的な官憲国家だったのである。 国家は市民に対して、納税義務、就業義務、兵役義務を課すようになり、 それは国家に権力を与えた。 官僚は君主に仕えるだけの人たちではなくて、国家への「奉仕者」であった。 官僚は自分たちを「普遍的身分」、すなわち、専門知識と理性による者として、 特殊部分的なエゴイズムに対抗して、一般的な公共を代表する存在と考えていた。 官僚は、封建性、ブルジョアジー、民衆運動と対立した。 官僚は、大学での法学の勉学と、無給の準備期間を必要としており、 下層の人たちを閉め出していた。 プロイセンの場合、1820年には、県庁と州庁のメンバーの、 75パーセントが市民出身、25パーセントが貴族だった。 しかし官僚の指導的なポストには、古来の貴族が占める割合が多かった。 官僚は、かつては教養人の世論の代表者であり、 市民的世論、理性と公益の先導者という役割を担っていたが、 しかし、逆に、その種のものを抑制し、復古の体制に順応するようになった。

ニッパーダイを読みながら18

自由主義は保守主義の理念の敵対者である。 保守主義とは何よりもまず、秩序と安定の維持である。 保守主義の人間論的な前提によれば、啓蒙主義とは異なり、 人間は善良な存在ではなくて、有限で罪深い存在である。 したがって自由は破壊的であり、必要なのは、秩序を保つ諸制度だと考えるのである。 秩序と安定を保つためには、権威が必要とされる。 議論は、いかなる権威をも確立することができない。 そして多数派は不安定なままであり、多数派が「理性的」に行動することはできない。 「多数派ではなくて権威を」が19世紀のプロイセンの保守主義者たちのスローガンとなる。 権威は単一なものでなければならず、国家権力を分割することは不可能である。 したがって、本来の権威とは、君主の権威である。 正統性、古さと継続性と法的な効力、生まれと相続、そして神によって、権威は正当化される。 神は支配に正統性を付与する。 保守的なキリスト教の伝統的な徳である、敬虔と、畏敬と、謙譲、 忠誠と服従が、保守を支える基盤に属する。 革命家や進歩主義者と異なり、保守主義者は、伝統と過去を強調する。 保守主義者たちは、自由主義者たちの個人主義を批判する。 全体が部分よりも優位に立つのであり、 人間は、様々な結びつきと社団、家族と職業のなかで生きているのである。 それは、不平等でヒエラルヒー的で、区分されている社会となることをも意味する。 自由主義を、ブルジョアジーとインテリゲンチャのイデオロギーとして攻撃することは、 保守主義者の統制の武器となった。 部分の中間階級に対抗して、普通選挙権を導入したのが、 保守主義者の一人であるビスマルクだったのは偶然ではない。 保守主義派は、自由主義派と同様に、 絶対主義と官僚的改革者たちの近代的国家に反対した。 絶対主義は、臣民を水平化することを望み、 古来の特殊個別的で社団的な中間権力を排除し、中央集権化と官僚制化を進め、 君主とその奉仕者たちを、抽象的な国家の奉仕者たちに変える。 保守主義は、近代的な官憲国家と民主主義を、 すなわち、上からの絶対主義と、下からの絶対主義を、 平行現象とみるという独特な捉え方をする。 そして、国家が社会を「上からの革命」という規範の下に、 置こうとする場合には、保守主義者たちは反対する。 国家に対抗して、保守主義者たちは自由主義者たちと同様に、...

ニッパーダイを読みながら17

啓蒙主義の場合、人々は人類や世界市民の一員であったが、 ナショナリズムの場合、人々は国民の一員である。 ナショナリズムにおいては、個人を超える結合体との所属は、 身分、宗派、地域、部族、階級、政治的なイデオロギー、ではなく、 まさに国民なのである。 国民という政治的信仰の時代にあって、国民は宗教的な特徴を帯び、 未来、聖性、友愛、犠牲、殉教のような、宗教的な言葉が、国民と結びつけられる。 国民的なもののなかで、宗教的なものが世俗化され、 世俗的なものが神聖化されるのである。 ナショナリズムにおいては、第一に言語、第二に民族が見出された。 ロマン主義は、個別的で特殊なもの、民衆的で原初的なものへの転換を、 無意識的な「民族精神」へと強め、拡大し、完成させた。 歴史的に見れば、ドイツの近代的なナショナリズムには、 フランス革命という出来事が根ざしている。 1789年に、フランス王が統治する諸州に住む人たちは、 あらゆる地域的、身分的、宗教的な特殊性に背を向けて、 一つの国家の民としてまとまり、まさに自らを国民として構築した。 ジャコバン流の急進的ナショナリズムは全体主義的な特徴を帯びる。 国民の集合意識は、強制に訴えてでも、個人や少数派に対して、 貫かれなければならないとされる。 国民の名の下に、異端や多元主義、連邦主義や教会に対して、好戦的な態度が示される。 国民の理念は、多数決の原理にかつてなかったほどの新たな推進力を与え、 最終的には、外に向かって攻撃的で、伝道的で、帝国主義的な態度をとるに至る。 ナポレオンは、依然として国民的=ジャコバン的な民主主義の申し子だったのである。 国家国民は法的であり、 文化と民族の国民は、言語と共通の出自によって定められている。 国家国民と文化国民とが同一のものとなって初めて、 超個人的な共同体の中で、 人間の活動は真に正当化されるのである。 書物や芸術作品、建物、国民の偉人(ベートーベンなど)を称える記念碑は、 現在化された伝統である。

ニッパーダイを読みながら16

「リベラル(自由主義)」という言葉は、最初は1812年のスペインの憲法の支持者たちを指して、 創り出された言葉だが、それは、政治の分野だけに留まらず、 教会や経済や他人に対する姿勢についても用いられる。 自由主義は、個人の自律性、個人の自己決定と理性から出発する。 それは啓蒙主義の遺産であり、とりわけドイツでは、カントの遺産である。 自由主義は、伝統に矛先を向ける。 それは身分と社団による伝統的な拘束に、 そして個人に対する官僚と支配者による後見に矛先を向けるのであり、 したがって、自律性とは解放を意味する。 封建的=社団的な社会と、官憲的な国家との双方に対して、 戦線を張る点に、自由主義の特徴がある。 他人と、その可能性や諸力を開花させることが、 人生観の中心に位置するのであり、そこから初めて、国家と社会の意味と目的も規定される。 とは言え、個人の自律性と自由は、反国家的でアナーキズム的なものとに、 考えられているわけではなくて、これもカントの影響を受けてのことだが、 法律に基づく自由を意味している。 国家からの自由というよりも、国家における自由、国家への自由なのである。 自由主義にとって、国家活動の内容と方法は制限されるべきであり、 個人の自由は、国家の過大な権力から守られるべきものである。 国民は、自らが自らを規定し、統治することを望み(それが国民主権の原則である)、 あるいは少なくとも共同決定権を、統治への参加を望む。 統治は、被統治者の同意がある場合にのみ、正当なものとなる。 自由主義的な原理(国家の行き過ぎに対して個人を守るという)の傍らに、 民主主義的な原理が登場し、それは多数派による支配という要求に行き着く。 自由主義と民主主義とは、論理的にも歴史的にも同一というわけではない。 多数派が望むという理由で、イエズス会を追放することがあり得るし、 その一方で、イエズス会の自由への権利、少数派としての権利を擁護することもあり得る。 しかし、この二つの原理は、どちらも現状の変革を望む、一つの大いなる運動に所属している。 自由主義は、市民階層の運動だった。 理性、自律性、基本的人権、個人の自由、私有財産の自由と保障、 法の前の平等と法の保障、そして監視的な警察国家と封建的な社会への反対、 それらは、市民的な原理と利害を表すものに他ならない。 19世紀...

ニッパーダイを読みながら15

官僚は、身分制を乗りこえ、試験と業績という民主的な原理に基づいて選抜される。 三月前期には、官僚は、市民と貴族の双方に対して距離を取っている。 1848年の革命の後になってようやく、官僚と市民の間の距離が縮まっていくようになる。 市民的社会が古い世界と異なる点は、個人から成る社会であるということである。 すなわち、市民的社会は、個人主義である。 社会のアトム化、個人の拘束からの解放が、 保守主義の側からも、自由主義の側からも、このプロセスに付随して唱えられる。 古い世界の人間は「全き家」や社団組織、ツンフトや村落共同体、 土地の領主や隣人関係、生まれ故郷、教会組織、 そして地域の結びつきの中での生を拠り所とした。 個人化のプロセスの一部分を成すのが、文化という独自の領域が重要性を増し、 そして市民化していったことである。 芸術と学問は、身分制社会の中で持っていた、固定された機能から解放されて、 原則的には誰でも参入できるものとなる。 世界と生についての解釈は、もはや教会だけの問題ではなくなり、 俗人、世論、公衆も取り組むべきものとされた。 組織は解体されるが、真空状態が出現するわけではなくて、 新しい組織がそれに取って代わる、それがアソシエーションである。 読書協会、美術協会、フリーメーソン、学術教会、音楽協会、職業協会、経済協会、 政治協会、合唱教会、体操協会、慈善協会、学術協会などである。 古い世界は、このような協会の、それぞれの個人の、 議論しつつ自らを了解し、共同で行動したいという新たな欲求に、 いかなる余地も与えなかった。 個人化と、各個人の自発的な結集とは、互いに対応し合っていたのである。 アソシエーションは元々、身分制に矛先を向けていた。 人びとは、生まれや身分を考慮することなく、 教養と業績のみに基づいて、この組織に所属するべきなのである。 協会には、階級間の距離を取ろうとする傾向と、 諸階層を統合して、連帯しようとする傾向とが並立していた。 労働者もアソシエーションを結成するべきだと考えられたのである。 アソシエーションは、プロレタリアートを、 脱プロレタリアート化して市民化する手段なのである。 疎外された味気ない労働に対して、 教養と、目的から自由な文化という普遍性で対抗することが目指された。 市民的社会は、専門化の道を進んでいく。...