絶対君主制の、福祉政策、例えば、経済や社会秩序、福祉保護や建築法が終わり、 自由主義は、安全保障と秩序維持という古典的な役割に、国家を限定した。 対外政策と防衛政策、法の維持、行政政策、資金を調達する財政政策に限定されたのである。 ナポレオン期には、文化政策、学校政策も加わった。 ドイツ帝国の時代には、国家と行政の任務が再び獲得された。 法治国家・司法国家・課税国家・関税国家・兵役義務・学校国家・教会との関係、 生活扶助と生活への備え、「給付行政」などが成立した。 不干渉国家が干渉国家となっていくのである。 帝国の中央秩序は拡大して、連邦諸邦の行政が従わなければならない規範の多くが、 帝国の中央機関によって定められた。 帝国官庁の形成により、連邦に代わって、帝国が政治の中心となっていった。 郡長も、彼の郡の代表者であるよりも、中央の国家の代表者としての性格を強めていった。 郡長は、帝国の敵、カトリックと自由主義左派、社会民主主義派とポーランド人に対する、 国家の「闘い」の断固たる代表者でなければならなかった。 郡長は、単純に国家に忠実であったというのではなくて、 保守派であり、地方や中央での、古プロイセン的な、 権力エスタブリッシュメントと結びついていた。貴族と近かったのである。 郡長たちを解体しなければ、リベラル(改革保守的)な政策は実現できなかった。 裁判所による行政へのコントロールの芽生えが、幅広く見られた。 自由主義派は、農村において、大農場主が持っていた、 地域の警察権をなくして、封建的な秩序を克服することを目指していた。 しかし農民解放と農業革命が、大農場所有者に有利に働いたため、 自由主義派による、田園地帯の脱封建化は失敗に終わった。 農場領主の警察権は廃止された。 しかし多くの小さな自治体では、事実上、大農場の一人が、管区長に任命されたので、 確かに法的基盤は変わったが、 具体的には多くのものが、旧状のままという状態だった。 ユダヤ人やポーランド人は、行政で任用されるチャンスは殆どなかった。 司法の分野では、ユダヤ教徒の割合は、人口比率と比べると高かった。 この分野では、カトリックは冷遇されていた。 1910年の時点で、県知事と州知事の中の、 貴族と市民層出身者の比率は、34人対14人であった。 貴族と市民層とが統合した新しい官僚エリートも...