ニッパーダイを読みながら22
プロイセンの官僚たちは、アダム・スミスの信奉者であり、 国際的な分業体制を信じており、競争は経済的進歩につながると考えていた。 したがって、プロイセンは関税をなくしていく方針をとった。 この関税政策は、市民的社会の利害を尊重し、憲法政策でもあった。 しかし、個別邦、たとえばバイエルンは、 権力と主権の不当な喪失を意味すると考え、関税をなくすことに反対した。 共通の関税政策を取るのは、難しいのである。 とはいえ1831年に、プロイセン、バイエルンなどは、 一つの関税体制に合同し、それは「ドイツ関税同盟」と名付けられた。 この関税同盟は、オーストリアのメッテルニヒにとっては、 「国家の中の国家」のようなものであり、 プロイセンを強化して、プロイセンの覇権と結びつくものだった。 したがって、小ドイツ主義(多民族国家のオーストリアを排除して、ドイツが国民国家としてまとまること)の、 一種の序曲のような意味を持った。 この見方は必然的とは言えない。 ヨーロッパ共同体のように、プロイセンは、中規模諸邦やオーストリアと同様に、 国民国家的な統一へと向かおうとする傾向に反対し、 諸邦の主権を保護し、ドイツの国家連合的な構造を保障したのである。 もちろん、最大の経済力を持つプロイセンが覇権を握っていることに疑問の余地はなかった。 長い目で見れば、プロイセンのほうが解消の脅しをかけることによって、 他の加盟邦に自らの意思を押しつけることができたのであって、その逆ではなかったのだが、 しかし当初はそれほどの紛争が生じることもなく進んでいった。