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ニッパーダイを読みながら15

官僚は、身分制を乗りこえ、試験と業績という民主的な原理に基づいて選抜される。 三月前期には、官僚は、市民と貴族の双方に対して距離を取っている。 1848年の革命の後になってようやく、官僚と市民の間の距離が縮まっていくようになる。 市民的社会が古い世界と異なる点は、個人から成る社会であるということである。 すなわち、市民的社会は、個人主義である。 社会のアトム化、個人の拘束からの解放が、 保守主義の側からも、自由主義の側からも、このプロセスに付随して唱えられる。 古い世界の人間は「全き家」や社団組織、ツンフトや村落共同体、 土地の領主や隣人関係、生まれ故郷、教会組織、 そして地域の結びつきの中での生を拠り所とした。 個人化のプロセスの一部分を成すのが、文化という独自の領域が重要性を増し、 そして市民化していったことである。 芸術と学問は、身分制社会の中で持っていた、固定された機能から解放されて、 原則的には誰でも参入できるものとなる。 世界と生についての解釈は、もはや教会だけの問題ではなくなり、 俗人、世論、公衆も取り組むべきものとされた。 組織は解体されるが、真空状態が出現するわけではなくて、 新しい組織がそれに取って代わる、それがアソシエーションである。 読書協会、美術協会、フリーメーソン、学術教会、音楽協会、職業協会、経済協会、 政治協会、合唱教会、体操協会、慈善協会、学術協会などである。 古い世界は、このような協会の、それぞれの個人の、 議論しつつ自らを了解し、共同で行動したいという新たな欲求に、 いかなる余地も与えなかった。 個人化と、各個人の自発的な結集とは、互いに対応し合っていたのである。 アソシエーションは元々、身分制に矛先を向けていた。 人びとは、生まれや身分を考慮することなく、 教養と業績のみに基づいて、この組織に所属するべきなのである。 協会には、階級間の距離を取ろうとする傾向と、 諸階層を統合して、連帯しようとする傾向とが並立していた。 労働者もアソシエーションを結成するべきだと考えられたのである。 アソシエーションは、プロレタリアートを、 脱プロレタリアート化して市民化する手段なのである。 疎外された味気ない労働に対して、 教養と、目的から自由な文化という普遍性で対抗することが目指された。 市民的社会は、専門化の道を進んでいく。...

ニッパーダイを読みながら14

古い世界のなかでは、ユダヤ人は独自の集団として、 職業の選択も滞在する権利も、厳しく制限され、 中世的な、ほとんどゲットー的なあつかいを受けていた。 ユダヤ人が一連の宗教的な慣行を放棄し、 いわゆる「民族性」を放棄することが、真の公民となるための条件として要求された。 障害や後退があったにもかかわらず、全体とすれば多くのユダヤ人にとっての、 法的な条件ー生業に対する制限の撤廃、 学校への受け入れ、居住権の付与、等は改善されていった。 1815年頃には、君主に金を調達する、 ロートシルト家のような銀行家を中心として形成された、 裕福で教養のある「市民的な」ユダヤ人の数は、ごく少数に過ぎなかった。 1840年代から、ユダヤ人は貧窮から脱却して市民化し、 経済的・精神的な上層、あるいは中の上の階層へと、かなり力強い上昇を遂げた。 市民化したユダヤ人の社会的な構造は、非ユダヤ人のそれとは異なっており、 商業・金融部門が支配的な位置を占めていた。 この市民化のプロセスは、ユダヤ人のドイツ化のプロセスが伴っていた。 ゲットーの壁が崩れると、伝統の力が弱まった。 目指されていたのは、モーゼの教えを守る国民的で自由主義的な思想を持つ市民、 「ユダヤ教を信奉するドイツ公民」となることだったのである。 改革派ユダヤ教は、カント的に解釈された「純粋」な宗教を土台とし、 伝統的な生活形態から離れ、ユダヤ人の中世、 ユダヤ人の独特な「民族性」と決別するのを土台として、 自らを刷新しようとする試みに他ならない。 市民的なユダヤ人たちにとって、哲学的=自由主義的に解釈された彼らの信仰は、 一つの宗派となったのである。 1815年のウィーン会議から1848年の3月革命までの30数年間を指す、三月前期には、 多くのユダヤ人は保守的であったが、 1848年以降からは自由主義を支持するようになる。 1870年代に至るまでの時期については、 ユダヤ人と自由主義とはパートナー関係にあったと言われる。 社会主義者の占める割合も高かった。

ニッパーダイを読みながら13

貧困は、かつてのように自然と神によって与えられたものと見なすことはできず、 社会の病として語られるようになった。 労働者が、市民的な社会の均衡と秩序を脅かし、 共産主義が広まれば、いっそう脅威となる、と意識されるようになった。 ヘーゲル以降、疎外の問題ー分業と機械による生産における、 無味乾燥で、自動的で、感情を鈍麻させる労働ーが好んで採り上げられる問題となっていた。 保守主義者たちは、「ブルジョアジー」を告発する傾向が強く、 自由主義者たちは、無能な国家や封建的な状況を非難する傾向が強かった。 ノスタルジーに駆られて、最も貧しい者でも、ヒエラルヒーと調和に基づいた、 確固とした秩序の中に自らの居場所を持っていた「古き良き時代」を対置し、 共同社会を、利益社会に対置することもあり得たが、 しかし、技術と経済の変化はもはや元に戻し得ないという認識が出発点とされていた。 「社会保守主義」と「社会自由主義」という二つの類型がある。 社会保守主義者は、カトリックであれ、プロテスタントであれ、 ロマン主義的な反自由主義的な社会観を出発点としている。 彼らの目から見れば、結びつきを解消する、社会を機械的にアトム化する「自由主義」は、 個人の自律性と自由を信じているが、それは新たな専制と奴隷制に通じるだけなのであり、 無神論は利己主義を解き放って、社会問題を生み出しているのである。 そうであるとすれば、肝心なのは、流動的で市民的な業績社会・階級社会を解き放った行為を、 国家が撤回することであり、農業的・手工業的な社会を強化することである、と。 しかしながら、そのように過ぎ去ってしまった世界を指針とする姿勢は、 当然のことながら、ユートピア的な性格を帯びざるを得なかった。 宗教は、労働者を「奉仕」の習性で満たし、 彼らを「道徳」と「勤勉」によって強め、 「変化中毒症」から護り、彼らを「身分なき身分」とは区別して、 社会の中の真の身分にするべきであると主張した。 聖職者が指導する下での労働者の社団が望まれ、 聖職者が、議会で議席と投票券を持って、労働者を代表するべきだと主張した。 「社会カトリシズム」は労働者保護に関して、 物質的な生活条件と賃金に、国家が影響を及ぼすべきだと考えた。 プロテスタントの保守主義者は「財産を持たない労働者」を、 「労働する財産所有者」に変えることを...

ニッパーダイを読みながら12

ニッパーダイによると、大衆貧窮の原因は、産業化された工業にあるのではなくて、 経済が停滞していて、労働力への需要が停滞していた状況で、 人口が増えたことにあった。 産業化された工業は、働き口を減少させるのではなくて増大させた。 しかし、産業化や輸入による競争、労働力の過剰という圧力は、手工業を圧迫し、 働き口を壊滅させた。 1845年から、さらに飢餓危機のなかで、しばしば暴動がおこり、 暴動はすべて軍によって鎮圧された。 しかし、各種の報告や調査は、大衆貧窮の凄まじさを白日の下に晒した。 慢性的な不完全雇用状態が起こっていたのである。 雇用と収入は不安定で、危急の場合に備えて節約するのは、収入状況から見て不可能であった。 下層民はその日暮らしを送っていたのである。 身分も土地もツンフトも持たない下層民は、伝統的な身分制秩序の規範から転げ落ち、 急進的な哲学者たちは、それを疎外という概念で説明した。 伝統の拘束から解き放たれることは、解放を意味したが、 しかし困窮には、モラルを衰弱させるという傾向も伴っていた。 社会的なヒエラルヒーのなかで、自分を従属的な存在と位置付けるのを自明なことと考える、 伝統的な考え方が依然として支配的であり、 彼らの規範はなおもキリスト教から決定的な影響を受けていた。 これに対して、社会問題を解決するという自由主義的、革命的なスローガンは、 市民階層の知識人たち、次いで外国に旅した手工業職人たちによって唱えられたが、 下層民に属するものではなかった。 このような下層民のなかから産業化の過程で、産業労働者が形成されてくる。 工場は、人間と時間との関係を革命的に変えた。 産業化以前の世界では、自然な時間が通用する。 一日の時間と一年の時間、天候と収穫・搾乳・炭焼き窯の見守りのような「自然」な仕事が、 時間を区分し、時間にリズムを与える。 どのような仕事であるかに応じて、一日は長くも短くもなる。 この時間のなかでは、労働と生活がほとんど分離されていない。 時間はまだ金になるに至っておらず、時間は近代的な意味では浪費される。 問屋制家内工業のシステムでは、待ったり、取りに来たり、運んだりするのに、 多くの時間が使われ、労働は不規則で、長かったり、短かったり、 早かったり、ゆっくりだったり、自由に定められていた。 製品が出来上がりさえすれば、そ...

ニッパーダイを読みながら11

ドイツの場合にも、19世紀の画期的な成果となったのは産業革命、 すなわち生産の技術的な革命化、経済関係の資本主義的な革命化、 機械と工場と市場と成長である。 技術は、自然から、自然が設定する条件から解き放って、 もはや、自然を模範するものをを生み出すのではなく、 新しいもの、すなわち工作機械と原動機械を生み出した。 木材に代わって、石炭と鉄が、人間の活動によって生み出されるものとなる。 石炭が、蒸気機関を通して、自然の動力である、人間と馬、水と風に代わる動力源となる。 労働の過程が分解され、したがって古風な「技」は重要性を失い、 発明はもはや偶然ではなくて、計画に基づくものとなり、 数量化と体系的な方法によるもの、最終的には科学に基づくものとなる。 人間は自然の支配者となり、自然を我が物とする。 新たな経営方針は、「生計を立てる」ことではなくて、 最大限の利益を得ること、貨幣と現物資産の全体、 すなわち資本をそのような意味で活用することを目標とする。 この経営は、合理的・計算的で数量化を好み、 もはや人間を中心とするのではなくて、完全に即物化される。 それは匿名の、誰とも知れない市場を相手とする。 経営する者は、他の経営主体と競争する関係にある。 このような競争こそが、近代的な「市場」を創り出すのである。 それは調和のとれた連帯関係ではなく、個々の主体それぞれが、 特殊で孤立していて、保護された経済圏のなかにいるといるというのでもない。 このような経営姿勢は資本主義的である。 プロテスタンティズムによる世界の脱神聖化が、 長い目でみれば、技術者や企業家の持つ革命的な力を助長した。 啓蒙絶対主義は、官職を利害から切り離し、官僚的な合理性を強化するとともに、 計算に基づく経営を可能にし、革新を敵視する古いツンフト(同業者組合)体制を打破した。 資本主義的な企業、株式会社がツンフト組織に取って代わった。 鉄道の大多数は株券を土台とした民間鉄道だった。 とはいえ、認可を与えるのは国家であり、その際に、路線の経路に影響を及ぼすことができた。 蒸気船と鉄道が初めて、株式会社の設立を強く要望するのである。 ナポレオンの時代に台頭した銀行家であるロートシルト家は、 フランクフルト・ウィーン・パリ・ロンドン・ナポリに居を構えていたが、 彼らはメッテルニヒの復古政策の資金を調達...

ニッパーダイを読みながら10

人びとがどう振舞うか、そしてそれを見張る村人の目といった、 これまでの慣習が、人々の態度を規定する。 そこから、保守的な側面、個人を前面に押し出さない側面、 感傷的でない即物的な側面が生じるのである。 慣習と家族と所有が、個人が規範から逸脱することを制限する。 新しいことを始めようとする人物、何事かを成し遂げようとする人物への反感には、 自分たちの世界を中心に考えようとする側面がある。 理念や原則、何かしら一般的なものではなく、 農家とは、農民の地域的な利害が、 世界に対する向き合い方の中心に位置しているのである。 農民の田舎じみた感覚、視野の狭さを、 知識人たちが雄弁に批判するのは、そこに起因する。 「国家」すなわち官僚制が、法律や、訴訟や、税金や、土地の収用(道路や鉄道の建設に際して)、 などの形を取って、「公益」が村にとっても利益になることを理解させる。 村は国家の世界に抗いながらも、その世界に次第に巻き込まれていくのである。 1848年の蜂起は、封建的体制に矛先を向けており、民主主義に接近していたけれど、 経済的=社会的な面では、農民たちの要求は保守的なものであった。 すなわち、彼らが求めたのは、生産性の向上と競争を旨とする資本主義経済ではなくて、 「正当な最低限の生活」を保障してくれるモラル・エコノミーだったのである。 それゆえ、農民たちはは反ユダヤ的で、反都市的だった。 自由主義や民主主義の合言葉ー市民権・憲法・国民ーは、彼らの琴線に触れるものではなかった。 彼らは「普遍的」身分としての解放的なプログラムではなくて、利害を主張した。 ある程度まで、彼らは左翼や右翼といった区別を超えるところに位置していた。 マルクスとエンゲルスは、農民は自分たちの局地的な利害のことしか、 念頭にないから、保守主義だと考えていた。

ニッパーダイを読みながら9

「農業は、植物由来あるいは動物由来の物を生産することを通して、利益を生み出し、 あるいは金銭を得ることを目的とする職業である。」 それは、資本主義的な経済観であり、 収益・採算性・利益の最大化・即物性・計算性といった新たな現象を伴っていた。 それは、アダム・スミスの精神に沿って確立された、農業経営学である。 農村部には、大農場主・農民・農業労働者という3つの階級があった。 大農場領主は、農業起業家としての大農場主に、 生まれに基づく身分から、所有に基づく階級に変化した。 大農場は動産化したのである。だから売却ができるし、所有者も変えられる。 1850年代までは、騎士農場主の50パーセント近くが、市民出身となっていた。 経営の仕方という点で、新たな階級全体の「市民化」が起きたのである。 とは言え、貴族の側は1848年までは、市民階層の出身者を、 政治的な機関から追い出そうと努めた。 長い時間をかけてようやく、彼らは統合され、 ある程度まで受け入れられるようになったのであり、 部分的には、市民は後に貴族に叙されたのである。 とは言え、新たな農業起業家たちも、「騎士」であることに変わりはなかった。 封建的特権の名残が、残存していたのである。 免税特権・狩猟権・領主裁判権・地域の警察権などである。 1837年になっても、住民の3分の1は、 国家ではなく、騎士の裁判権の下にあったのである。 さらには教員や聖職者を選任する「保護権」、村長を任命する権利があって、 農民による自治行政は、発展させられることができなかった。 従順でない者は、貴族が杖で打ち据えるというようなことが、依然としてしばしば起こった。 封建的な優位と資本主義的な優位、 そして、それぞれに伴う利益獲得のチャンスとが、1つに結びついていた。 1848年の革命は、狩猟権や領主裁判権のような、封建的特権の一部を撤廃し、 一時的には、1856年まで、大農場主の警察権も廃止した。 自由主義的な政府は、地方自治制度の革命を計画して、 村を、騎士農場主の支配から解放することを目指し、 そして1850年になっても、官僚主導の反動政府は、「脱封建化」を目標として掲げた。 しかし、それも三月革命以前の状態への復帰を求める反動の前に挫折した。

ニッパーダイを読みながら8

住まいのあり方は、階級によって分かれる。 労働者は「悲惨な」「賃貸用アパート」、 狭苦しい空間と粗末な設備によって、特徴づけられていた。 芸術家や文人は、1830年代頃からは、 もはや主として宮廷社会ではなくて、市民階層の家で交流するようになる。 1800年頃の農村では、自給自足が通常のタイプだった。 次第に、食糧の商業と購入が決定的な意味を持つようになっていく。 1年の長いリズムに基づく自家供給が退けられていき、週単位の供給に切り替えられた。 購入と金による供給は交換を早めることを可能にし、 商業はより多くのものを提供するようになる。 飢えとカロリー不足は、1850年代に、大衆貧窮が終わりを迎え、 下層の人々の間でも、砂糖と肉の消費量が増えていく。 しかし労働者の食事は、市民階層のバランスのとれた栄養状態の下限部に位置していた。 労働者世帯は、依然として収入の50~80パーセントを、 食物に支出しなければならなかったのである。 看護の分野は、カトリック修道会の修道女や、 プロテスタントの社会奉仕団を通して、専門職化されていった。 国家は、健康への権利に配慮しなければならなかった。 共同体は、個人の財産とは関わりなく健康を保つための、 諸条件を配慮する義務があるのである。(上下水道の整備による衛生面改良など)。

ニッパーダイを読みながら7

どのようなタイプの家族にとっても、離婚は法的には、 (プロテスタントの場合には教会法的にも)可能だったけれども、 例外的なケースに留まっていた。 外部からの歯止めと、内面化された結婚モデルとが、 情緒的な個人主義や「ロマンチック」な恋愛に伴う、主観的な感情の変化を抑止していた。 家族は、言わば自明なものと考えられていたのである。 下層の人々の家族では、家庭を築くうえで法的・経済的な障害が存在していた。 農村での家内工業の広がりと、農業労働者としての働き口の増加が、 家庭を築く新たな可能性を生み出して、 日雇い労働者や小作人の家族という古いタイプを拡大した。 また、子供が生まれるのは、働き手が増えるということをも意味したのである。 プロレタリアに関しては、家庭を持たないことを強いられるという生活形態があった。 ロマン主義的な恋愛観は、友情と官能との二元状態を、 エロチックな結婚において解消しようとした。 逆に、女性の理想化と家庭への集中が、セクシャリティを抑圧し、 女性から厳しく官能を遠ざけた。

ニッパーダイを読みながら6

ロマンチックな恋愛は、物質的な重荷を負うことが少ない、 「上層」階級のみに限られた。 二人の出会いは、何かしら運命的なものであるのであり、 一目見ただけで陥った恋、運命の糸で結ばれた二人、 至上で絶対的なる恋、愛する人の完全無欠さ、大いなる情熱、エロチックな吸引力が加わる。 結婚は、「客観的」なもの、両親が環境や神によって相手を定めるものではなく、 「愛情」、自らの主観的な決断に基づくものとなったのである。 死は、キリスト教徒としての裁きと救済に目を向けた「私の死」としてではなく、 愛する代え難い家族の一員の死、「他者の死」「愛しい人」の死として経験される。 死は、公的な領域から私的な領域へ、 自然と神によって定められたものの甘受から、深い喪失感と取り残された悲しみへ、 儀式から、もはや形式化しえない哀悼へと移動する。 裁きと復活ではなく、天国で「再会」することが、新たな終末論の内容となるのである。 家族の各個人の墓が、ロマンチックに一か所にまとめられ、 墓石の前に、家族のメンバーが故人を偲びながら集まるという、 新しい墓地文化が浸透していたのである。 市民階層の妻は、以前よりも自由な立場を獲得する。 古典主義とロマン主義の理想のなかには、感情に対して敏感な側面があり、 例えば、家父長主義に比べれば、近代的な傾向を帯びている。 妻は以前よりもパートナーと見なされ、妻に配慮することが一つの新たな美徳とされた。 妻は、経済的な負担を軽減され、余暇が増え、教養が向上し、 会話のパートナーとして、役畜のように扱われたり、 母親としてだけ扱われたりするのではなくて、個人として扱われるようになった。 ロマン主義者たちは、女性の個体性を強調し、 散文的なシラーが、貞淑な「主婦」を理想としたことを嘲笑して、 まさに神秘的なまでに女性を賛美する。 1815年以降になると、教養の重視が、男女の区別を強調することにも繋がっていく。 なぜなら、職業と政治のために必要とされる男性の教養は、 若い女性に求められる教養とは異なるものだったからである。 新たな意味で、妻は夫に服従させられるのである。 この見解によれば、妻は内に向かって、家族のために生きるのであり、 世の中に乗り出すことはなく、夫のように「冷静な」合理性を持たず、 ナイーブで、あれこれ考えを巡らすことのない存在と見なされた。...

ニッパーダイを読みながら5

18世紀のドイツでは、近代的な家族という制度が成立する。 この革命的な変化は、まず市民階層から始まって実現する。 旧世界では、子供の死亡率が高く、結婚した相手の死亡率もかなり高い。 平均的な結婚期間は20年と短く、死が結婚期間を短縮しているのである。 孤児や再婚は当たり前のことであった。 結婚は、家を持つことと結びついており、市民層でも労働者層でも、 結婚する前に金を貯めなければならず、結婚年齢は比較的に高かった。 旧世界では、子供たちは14歳頃に奉公のために家を出た。 自宅では、奉公人や職人、すなわち下働きをし、ともに働き、修行している、 家族以外の人間が生活共同体としての「家族」に属していた。 このような家族は、生活共同体であると同時に、生産共同体でもあった。 もっとも、これらの家族の場合にも、核家族へと収束していく傾向があった。 すなわち、都市では老人や未婚者が外に出されていくようになり、 職人が、そして後では徒弟が、しだいに手工業者の所帯から離れていき、 大規模な農民のばあいでも、主人と奉公人が分かれて住むようになった。 農民や手工業者の家庭は「私的」なものとは言えず、 隣人や同業組合(ツンフト)仲間や牧師・司祭の目に晒されていた。 家族のあり方が社会的に監視されていたのである。 大都市が社会的な監視を緩めるようなってようやく、家族は私的で隔離された存在となった。 「市民的」で個人的な、新しい家族観を獲得するようになったのである。 配偶者の選択については、18世紀の後半以降、農民と手工業者の場合にも、 もはや親が一方的に決めるものではなくなった。 しかし、農民や手工業者の間では、ロマンチックな恋愛、個人的な愛情が、 結婚の動機として、特別な役割を果たすことはなかった。 実際的な能力があるか、財産があるか、世話をしてくれるか、 互いに折り合えるか、といった点が決定的な意味を持ったのである。 昔ながらの見解によれば、愛情は結婚の前にあるのではなくて、 結婚とともに愛情が芽生えてくるものとされた。 無秩序で不道徳な男女の出会いは、官僚たちから敵視され、 最終的には、学校と人びとの流動化と産業化によって、力を奪われていった。 結婚は、宗教的に、教会による結婚予告、祝別、教会記録簿への記載、 家族への祈祷を通して、是認された。 まさに結婚において、人は、...

ニッパーダイを読みながら4

国家による大学というモデルは、教会ではなく、大学とは世俗的な機関であるということである。 聖職者の特殊な権利は、法の平等という観点から廃止される。 国家は聖職者のポスト、とりわけカトリックに関しては、 司教職への任命に多大な影響を行使した。 聖職者の養成教育は国家が扱う事柄とされ、教会の財政は国家によって規制された。 神秘主義や狂信主義は排除されるべきであった。 国家は礼拝や行列行進を行う回数と時間を定め、 教会の鐘を鳴らしたり、奇跡について説教したりするのを禁止した。 それらは、封建勢力と闘ううえで国家を強めた。 世俗化された教会は、脱封建化した。 高位聖職者はもはや貴族の独占するところではなくなった。 ナポレオン法典は封建的な社会を自由な所有者から成る社会に変容させるものであって、 土地領主制を撤廃するものだった。 しかし、封建的な権利と収入の撤廃は、法典が財産を保障している以上、 何らかの保障と結びついていた。 ナポレオンの貴族政策が、徹底した社会改革を阻んでいた。 貴族たちの権利は明確に保障されていたのである。 法治国家はリベラルとも言える。 個人主義と競争を解き放つという経済的・社会改革もリベラルと言える。 ナポレオン敗北後、メッテルニヒは勢力均衡と、 ナポレオンが皇帝に留まるのが、最も好ましいと考えていた。 しかし、ナポレオンは革命によって征服した地域を放棄することができなかった。 1814年、パリは連合国によって占領された。 25年間にわたった動乱は終わり、革命時代の後に、ヨーロッパに新たな秩序をもたらすことが、 ウィーン会議に与えられた任務だった。 ヨーロッパの貴族たちは、自らの世界が脅かされるのが終わったことを祝ったのである。 求められたのは、勢力均衡がもたらす秩序であり、諸国民の自由と自己決定に基づくのではなくて、 諸国家と諸王家の正当性に基づく秩序に他ならなかった。 ドイツにおける憲法制定要求においては、近代的な市民的=立憲主義的な契機と、 伝統的な身分制的=貴族支配的な契機とが、 依然として未分化のまま併存していた。 憲法は、自由主義的な意味を持つことがありえたし、 保守的・国家主義的・身分的な意味を持つこともあり得た。 ブルボン家が復位したことで、フランスの立場は急速に改善された。 イギリスもロシアも、和解と勢力均衡とフランス国内...

ニッパーダイを読みながら3

新人文主義の理念は、啓蒙主義の、分別と有用性、安寧と至福といった、 安易に通俗的なものと化してしまう理想に、否定的な立場をとる。 新たな構想の中心は個性である。個人は、人類の理念を実現する。 このような教養を身に付けることは、学校の場合とは異なって、 生涯にわたる終わりのない過程であり、 それゆえ自己目的、最高の価値ともなる。それは自己啓発とも言いえる。 このような教養は、実践の世界、労働と経済と金儲けの世界とは隔たっており、 専門教育とは異なるのである。 教養の形成は、生まれながらの本性をそのまま開花させることではなくて、 文化と書物を媒体としてなされる。 ギリシャ人には完成した人間性の理念が見出された。 ローマ人は個性を抑圧し、キリスト教は自然な本性を抑圧したが、 近代人は役に立つもの、特殊なものにだけ目を向けてしまっている。 これに対してギリシャ人は我々の文化の基礎を築いた人びとであるだけでなく、 すべての面を開花させるという理想を体現している人びとである。 この偉大な民族のあらゆる側面と取り組むことこそが、 我々の「魂の知的・道徳的・美的な諸力」を、 すべての面にわたってきたえることになる。 ギリシャ教が、十字架と原罪、救済と彼岸のような古くから受け継がれてきたものを追い払い、 此岸への信仰、人間の尊厳と美しさと完全さへの信仰に置き換える。 教養によって与えられる自由は、精神的で内面的な自由であり、 言わば周囲の政治的・社会的状況の彼方に位置するものであった。 そのような自由は、今日ではしばしば「内面性への逃避」という悪評を被っている。 それは通俗的な見方と言わざるを得ない。 そのような政治の彼方にある自由は、政治と社会が圧倒的な力をもって、 人間を超える自己目的となるような事態を補正するという点に、その意義を有しているのである。 そして、この運動を担った人たちは、決して政治から退いたわけではなくて、 そのようなメタ政治的な教養こそが、 まさに新しい政治への最も強い推進力であると考えられていたのである。 このような教養理念が1800年頃に成立し、そして勝利を収めたということは、 一つの驚くべき事実と言って良い。 18世紀に力を持っていた、封建主義・絶対主義・都市市民層・啓蒙主義・哲学・自然科学も、 そして19世紀を左右することになる産業社会の到来も、...

ニッパーダイを読みながら2

後期絶対主義の段階になってもまだ、統一的な国家、政府は存在していなかった。 特定の担当分野、特定の州を扱う雑然とした上級行政機関があるだけだった。 共通の組織や情報を欠き、例えば財政の全体を見渡すことができなかったのである。 国王は個人的な助言者に取り囲まれ、決定を下した。 このような古風な体制に対して、官僚たちは抗議の声をあげていた。 上級行政機関に代わって、担当分野ごとに分けられた各省から成る内閣が設置され、 国王に対して直接責任を負った。 しかし貴族に矛先を向けた改革は失敗することもあった。 官僚的国家と農村部で成立しつつあった市民的=農民的社会との双方に対して、 地方での権力を握るユンカー(大土地所有貴族)の地位が確立されることとなるのである。 「物事を自分で処理することに国民を慣れさせ、子供のような状態から脱却させねばならない」 「公共の事柄への参画」を通して「公益への関心が強まるとともに、 国民の精神を高める公共活動の魅力が強まるのだ」 それぞれの個人がそのようにして自らの受け身の姿勢、 自らの利害や私的なエゴイズムを乗りこえ、国家を強化するべきであり、 ヨーロッパに古くから伝えられた、イギリスという模範、 すなわち、政治的秩序は単純に国家と個人とを対置させる上に成り立つのではなくて、 数多くの中間権力の上に成り立つのであって、まさに地方自治体こそがその基盤であって、 さらに、都市の自治行政は権力分立の原則に基づいており、 市議会など、官僚支配に対する反感が一定の役割を演じていた。 農民解放は、封建的、領主支配を解体した。 農民はそれまで領主に対して負っていた賦課金や賦役や義務から、解放されるはずであって、 農民は人格的な自由、農地の完全な所有権、自らの労働力を自由に用いる権利を獲得するとされた。 人道的な啓蒙主義とカントの厳格主義の意味において、 農民はもはや社会の奴隷として扱われるべきではなく、 人間としての権利と尊厳を認められるべきなのであって、 そして、そのことを通して彼らを粗野で無知な状態から脱却させるべきであると考えられた。 アダム・スミスの経済的自由主義は、農業にも多大な影響を与えた。 農地と労働力を自由に所有する者のみが生産的で、効率的であって、 賦役よりも賃労働のほうが、経済的なものだったのである。 農民を解放することだけが問題...

ニッパーダイを読みながら1

19世紀初頭の15年間、ドイツ人はナポレオンの圧倒的な影響の下におかれた。 この時代ほど、生活が外部からの圧力にさらされていた時代はめったにない。 国家を大きく変えた改革は、この圧力から決定的な影響をこうむっていた。 フランス革命は世界史における画期となったが、 ドイツ人がそれを実際に体験したのは、ナポレオンの下においてであった。 1000年続いた神聖ローマ帝国は解体された。 イギリスとロシアは同盟し、フランスを封じ込めようとした。 ナポレオンはイギリスとの経済的戦争に勝利することを求めて、 「大陸封鎖例」(ヨーロッパ大陸とイギリスの貿易を禁止すること)を出した。 もっとも密輸は防げなかったが。 ナポレオンの帝国は外国人による支配を意味しており、 諸国民の抵抗を呼び覚ました(スペインの民衆蜂起など)。 ナポレオンの帝国は、抑圧の体制だった。 しかし、フランス革命の成果である、封建的・身分制の解体は引き継がれた。 それはリベラルな行政の恵みであった。 民衆は、絶対君主制と封建体制と官僚統治によって、 消極的な姿勢を取ることに慣らされていて、 ゲリラ戦を行うほどの力を、まだ、持っていなかった。 民衆蜂起には、革命の時代に予想される、国民革命的で民主主義的な運動と、 保守的な地域主義の精神に基づく解放闘争があった。 1806年に『極度に辱められているドイツ』という文書を広めたパルムという人は、 ナポレオンの命令で処刑された。 オーストリアの抵抗は失敗に終わり、 その後、大臣のメッテルニヒは40年近くその地位に留まるが、 フランスに協力する政策をとった。 1810年、ナポレオンはオーストリア皇帝の息女と結婚した。 ナポレオンは、革命と、革命以前の古風な政治の手段を用いて、 帝国を安定させようとしたのである。 ナポレオンを支持する「親フランス党」が、オーストリアとプロイセンにも存在した。 ヘーゲルはナポレオンの崇拝者だった。 一方、ロマン主義者は、国民的、民主主義の擁護者として、 ドイツの歴史と文化を再発見しようとした。 ドイツにおけるナポレオンの支配は、近代的な国家の土台を創り出した。 その影響は1848年、1860年代までに至る、ドイツの歴史を規定することになった。 市民的な自由と法の前の平等に基づく市民的な社会という、新しい理念が、 封建的=身分制的体制から、そ...

クラシック音楽について

ルネサンス音楽は、パレストリーナによって最高峰を極めます。 パレストリーナが亡くなったころに、大まかに1600年ごろ、 イタリアのフィレンツェで、ルネサンスの流れに影響を受けて、オペラが誕生します。 その代表者はモンテヴェルディです。 ただし、ルネサンス(ギリシア、ローマ文化の復興)とは言うものの、 ギリシア・ローマ文化の楽譜は残っておらず、 モンテベルディのオペラの様式は全く新しい物だったそうです。 フィレンツェで始まったオペラは、ヴェネツィアで大衆化し普及します。 モーツァルト、ベートーベンの時代でも、 ヨーロッパでは、イタリアのオペラが主流であり、 ベートーベンの時代でも、ロッシーニのほうが有名であったそうです。 モーツァルトの後期のオペラ「魔笛」などは、 ドイツ語でオペラを作りたいという動機もあったそうです。 ドイツ語のオペラは後年、ウェーバーによって「魔弾の射手」が生み出され、 本格的に始まったとされています。 その後、歌うイタリア、器楽のドイツ、という構図がクラシック音楽の基本構図です。 モーツァルトのオペラは、ウィーンでよりも、むしろチェコのプラハで愛好され、 晩年、モーツァルトはウィーンでは忘れられた存在でありました。 モーツァルトは奔放な天才肌の音楽家として知られていて、 確かにあふれ出るように旋律が生み出されていったようですが、 結婚するまでは女性関係もなく、残された手紙も音楽とお金の話ばかり。 お金についても、妻のための遊興に使ったという説が主流ですが、 病弱だった妻の保養地での療養のために使い果たした、という説もあり、 私の印象では、ものすごく真面目な人だったという印象です。 ベートーベンはモーツァルトのオペラについて、 その音楽性は認めつつも、内容が軽薄だと否定したと言われています。 しかし、モーツァルトのオペラには、貴族に対する風刺もえがかれています。 ザルツブルグの大司教という上層階級とも対立したモーツァルトは、 反骨精神にあふれた、ストイックな芸術家として考えたほうが近いのではないか、と私は考えます。 ベートーベンの「第九」は人類愛について歌い、 階級社会に対する、プロテストの意味を持っています。 「不滅の恋人」は誰かという問題に関しては、 その答えが「自由の女神」なのではないか?という説もあります。 『秘密諜報員ベートー...

大統領と議員

フランスの投票が、国民議会の場合には750人の議員に分散しているのに、 直接選挙の大統領の場合には1人の個人に集中している。 国民議会の国民に対する関係は、抽象的なものであるが、 大統領の国民に対する関係は個人的なものである。

1848年の革命

第1次フランス革命とさかさなのが1848年の革命である。 プロレタリア党は小ブルジョア的民主党のつけたりとしてあらわれる。 プロレタリア党は小ブルジョア的民主党によってうらぎられ、見すてられる。 この民主党の方はブルジョア共和党の肩によりかかる。 ブルジョア共和主義者は自分でしっかりたてると思うようになるやいなや、 厄介な戦友をふりすてて自分は秩序党の肩によりかかる。 すると秩序党は肩をひき、ブルジョア共和主義者をひっくり返らせておいて、 武装権力の肩に身を投ずる。 かれらは自分がまだ肩のうえにいると思っていると、 ある晴れた朝、肩が銃剣になってしまっているのに気がつく。 こうして革命は下向線をえがいてすすむ。

第1次フランス革命

第1次フランス革命では立憲派の支配のあとにジロンド派の支配が、 ジロンド派のあとにジャコバン派の支配がつづいた。 これらの党派は、いずれも自分よりももっと進歩的な党を頼りにした。 どの党も、革命をせいいっぱいに指導したあげく、 ついに、もはやそれ以上革命について行けず、 ましてそのさきにたってすすむことは尚更できなくなるやいなや、 すぐうしろにたつ、もっと大胆な同盟者によっておしのけられ断頭台におくられる。 こうして革命は上向線をえがいてすすむ。

憲法の自由とはブルジョアジーだけのもの

憲法関係法は、秩序の友たちの手によって生みだされたが、 そこではかのすべての自由は、ブルジョアジーがこれらの自由を享受するにさいし、 他の階級の同一の権利のためにじやまされない、というように調整されていた。 彼らが「他のもの」に対してこれらの自由を全く禁止するか、 あるいはそれの享受を警察のわなとすこしもかわらない諸条件のもとでゆるすかする場合も、 それはつねに憲法の規定どおりただ「公共の安全」(つまりブルジョアジーの安全) のためにのみ、おこなわれたことなのである。 憲法の条項も、本文の一般的文言では自由を、 但書きでは自由の廃止を、ふくんでいるのである。

ネッケルの立ち位置が理解しにくい。

ネッケルについていえば、彼は自分の人気がしだいに衰え、 銀行家たちとの緊密な協定にもとづいた、 その財政政策が愛国派によって非難されていることを知っていた。 議会が金融業者の満足できない借り入れ金の利子の利率しか認めず、 その結果、この起債は失敗に終わった。 起債の失敗の責任はネッケルに負わせようとされた。 ネッケルは国王の意思を左右しうる立場にいなかった。 ネッケルにたいして、食料の買い占め人たちの共犯者であるとして、 激烈な攻撃の論陣がはられていた。

直接民主主義と議会制民主主義の違い

人権および市民権の宣言は、直接民主主義的な文面を含んでいたが、 国民議会は代表制的な統治機構を組織し、 立法府が国のほとんど絶対的な主人であった。 ただし、フランス革命はアンシャン・レジームに対しては革命的であり、 貴族の免税特権に対しての「租税の仕組み」の改革だけでなく、 聖職者、貴族の「所有」に対して、その撤廃を行った。

穀物取引の自由と規制

穀物取引の自由は、貧民の貧窮を食いものにして、 富む者すべてに与えられた犯罪的な白紙委任とみなされていた。 そして、かりに重農主義的経済理論家の主張が正しいにしても、 農業の発展が土地所有者と大商人の利益となり、 その反対に、貧民が少なくとも当座は発展の全犠牲を払ったことは明白である。 当時の経済理論家は、この不幸は神の摂理によるものと考えており、 社会進歩は貧民を犠牲にしてのみ実現が可能であると、率直に認めていた。 他方、民衆は、働く限り生存できるべきであり、 パンの価格は賃金と釣り合うべきであると考えた。 パン屋に安くパンを売らせ、週市では穀物を赤字承知で払い下げ、 その補償や穴埋めに必要な金は富裕者から徴収すべきであると、彼らは考えた。 流通の規制、徴発や価格統制など規制を厳重に施行するべきだと、彼らは考えた。

ブルジョアジーとキリスト教の関係

ブルジョアジーとキリスト教の関係は、歴史的に対立と調和を繰り返してきました、 中世ではカトリック教会が富の蓄積を否定し商業活動を制限しました。 しかし中世末期に商業で台頭したブルジョアジーは、 教会と対立しつつ力を伸ばします。 16世紀の宗教改革では、カルヴァン派が勤勉と蓄財を肯定し、 ブルジョアジーの経済活動に正当性を与えました。 これが資本主義発展の基盤となったと、 マックス・ウェ━バ━は指摘しています。 近代以降は合理主義が広まり、ブルジョアジーは宗教から離れつつも、 福祉活動などで教会と連携する例もあります。 現代では地域によって関係は多様化しています。

フリーメーソンと自然宗教

当時のフランスのブルジョアジーの多くは、 ヴォルテールの影響をうけてキリスト教から離れ、 概して「自然宗教」のほうに惹かれていた。 この「自然宗教」はフリー・メーソンによってもまた唱導されており、 その無味乾燥な欠点はルソーの感情的吐露によって緩和されていた。

ブルジョアジーとネッケル

ブルジョアジーはネッケルに期待をかけていた。

階層

ジロンド派にはカルヴァン派の銀行家がいる。 大商人、製造業者は強硬な保護貿易論者である。 手工業者は資本主義に敵対的であった。 手工業者のなかには、マニュファクチャーとの競争によって脅かされ、 大商人の下請けとして働かざるをえなくなり、 賃金労働者の境遇へ転落した人たちがいるからである。 後にサン・キュロットの供給源となるのが、この階層である。 サン・キュロットとは貧困層である。

ブルジョアは豪華趣味

ナポレオン3世の時代のパリの大改造は、ブルジョアジー出身のオスマンが担っている。 パリのオペラ座の豪華趣味の装飾は、ブルジョアの美意識に迎合したものになっている。 カルヴァン派は禁欲的であるらしいのですが、ブルジョアは豪華趣味なのですね。 だからブルジョア即カルヴァン派ではないのかもしれません。 時代から見ても、ブルジョアは宗教改革以前から存在します。 ただ資本主義の形成、ブルジョア革命とカルヴァン派の革命の類似を見ると、 両者が関係あるのか無いのかは、まだ僕には理解できないところです。 マルクスはピューリタン革命をブルジョア革命だと考えているのかもしれませんが、 ピューリタンはカルヴァン派ですものね。

ブルジョアジーによる搾取

15、16世紀には、地理的大発見と植民地開拓と恒常的金欠に悩む、 王制の財政的措置に刺激されて、 ブルジョアジーが資本主義の発展とリズムを共にしながら飛躍の道を辿り、 18世紀になると、金融と商業・工業の先頭に立って、 国家の前進と行政に必要な資金を王政府に提供するまでになる。 そのなかで貴族階級の役割は絶え間なく縮小していったが、 それでも彼らが社会的ヒエラルキーの第一位にあることは変わりなかった。 しかし、貴族階級がカーストのなかで硬直化していったのに対し、 ブルジョアジーは、数においても、経済力と文化や知識においても重要性を増し、 そうした社会的・経済的現実を背景に野心を増大させていったから、 法と制度の運用に携わる貴族階級と必然的に真っ向からぶつかりあった。 フランスにとって19世紀はじめは、勝ち誇るブルジョアジーの時代であり、 名士たちは『国家』を自分たちの法を尊重させるために作られた、 いわば『ブルジョアジーの特典』の防壁のように考えた。 ブルジョアたちは、自由競争の資本主義に乗って、 良心の咎めも後ろめたさもないまま、庶民階層からの搾取の上に自らの富を築く。 田舎の日雇労働者や小作人、土地を持たない小農民、さらには工房の職人や、 生まれつつあった大工業の労働者にとって、 生活は18世紀の父親たちのそれよりも悪くなっていた。 工場の労働者にとって「生きるとは、死なないでいることだ」。 プルードンは「私有財産━それは盗品に他ならない」と書く。

カルヴァン派による都市の乗っ取り

プロテスタントの教会の壁は、白い石の地肌のままである。 すべてが収斂していく聖域の奥には、装飾を施した祭壇ではなく、 台所のテーブルのような粗末な木製のテーブルがあるだけである。 その上には十字架も燭台も聖なるパンを入れた聖櫃も載っていない。 知的活動に熱心なリヨンは、プロテスタントたちに対しても とりわけ好意的であった。 プロテスタントたちは、1560年、即位したシャルル9世が幼く、 権力が弱体化したのに乗じて、ジュネーブと同じように、 リヨンの町を自分たちのものにしようとしたが、この陰謀は失敗し、 都市は厳しい監視下に置かれた。 それでもリヨンはカルヴァン主義者たちの避難所であった。 1561年、ふたたび暴動が起き、1562年には二つの教会が、 その守っている聖遺物ごと焼かれ、 新教徒の新しい礼式にしたがった説教と洗礼が行われはじめた。 国王がリヨンを「奪還」したのは1563年で、これ以降、 カトリックと新教徒のそれぞれ6人、計12人から成る助役たちによって、 統治されるようになる。 カトリックとは、 「人々の信仰の努力よりも秘蹟の儀式を重んじ、 仰々しい祭儀によって大衆の心を惹きつける宗教」である。

北フランスと南フランスの戦い、アルビジョア十字軍

『アルビジョア戦争』は、北フランスと南フランスの決戦であって、 宗教的対決は表向きの口実に過ぎなかった。 この戦争は、カタリ派というさほど大きくもない一つの宗派の根絶を口実にして、 フランスで最初に真の自由を謳歌真実の輝きを放ち、 真の宗教の道を探求した南フランスという地方を、 その後長く衰弱させるために行われた戦いだったのである。

ロマネスク芸術とゴシック芸術、クリュニー修道会とシトー修道会

『ロマネスク芸術』の普及に主役を演じたのがクリュニー修道会であったのに対し、 『ゴシック芸術』において、重要な役割を果たしたのがシトー修道会である。 1150年ごろに全盛期を迎えた『ロマネスク芸術』と、 12世紀にそれを引き継ぎ、14世紀末まで続いた『ゴシック芸術』は、 年代学的にも地誌学的にも、切り離して捉えることはできない。 シトー会の厳格さは、この修道会に属するあらゆる建築にも表れている。 塔もポーチも造られず、建物を飾る彫刻も派手な彩色ガラスも排除された。 金色を仰々しく用いた絵で飾られたクリュニーの教会とは逆に、 シトー会の聖域は、白い石のままである。 しかし、この修道会も、発展拡大につれて、当初の厳格さを失っていった。 ロマネスクのフランスが封建制の多様性と結びついていたのに対し、 ゴシックのフランスはカペー的な中央集権制の刻印を帯びている。 北フランスで生まれたゴシック芸術は、13世紀じゅうに南フランスを征服した。 この同じ時期、『アルビジョア十字軍』を経て、 カペーの政治的権力が南仏に根をおろした。

テロリスト、無政府主義者、対、王党派

兵士たちは平穏な一般市民を脅かす、 テロリストや無政府主義者として告発された。 これに対し、兵士たちは自分たちが王党派から、 攻撃されていると主張した。

圧政への抵抗と法の遵守

フランス革命の1789年の人権宣言では、 圧政への抵抗が表明されていた。 1793年憲法では、圧政への抵抗を、 最も神聖な権利、最も不可欠な義務であると、 定義することで、さらに先へと進んだ。 1795年憲法は、圧政への抵抗を削除して、 法の遵守が主張された。

ブルジョアジーとカルヴァン派の関係

(ピュウリタン革命において)、 1648年にはブルジョアジーは、近代的貴族と結んで、 王権、封建貴族ならびに支配的教会と闘った。 (フランス革命において)、 1789年にはブルジョアジーは、人民と結んで、 王権、貴族ならびに支配的教会と闘った。 ↓ マルクスの語る、ブルジョアジーとは、 カルヴァン派のことと理解して良いのだろうか?

ジャコバン派は共産主義に影響を与えている。

かつては(フランス革命の)、 ジャコバン党員とよんでいた者を、 今日ではひとは共産主義者とよぶ、 とエンゲルスは言明している。 ↓ ジャコバン派とカルヴァン派と共産主義の関係は、 フランス革命で理解しにくい点の1つだと思います。

ピューリタン革命でも、カルヴァン派は君主政を倒している。

「カルヴァン派の信者は、しばしば君主政に対して批判的な立場を取ることがありました。 特に、イギリスのピューリタン革命(清教徒革命)では、 カルヴァン派の信者が中心となって君主政に反対し、共和政を樹立しようとしました。 この革命は、1642年から1651年にかけて行われ、 最終的には君主政が復活しましたが、カルヴァン派の影響力は大きかったです。 カルヴァン派の教義は、個人の信仰と倫理を重視するため、 君主政の絶対的な権力に対して批判的な視点を持つことが多かったのです。」 「ピューリタニズム(清教主義)とは、16~17世紀のイギリスで、 宗教改革を徹底して信仰を純化しようとしたプロテスタント(カルヴァン派)の一派。 信仰を浄化することをピューリファイというが、 カルヴァン派の考えではイギリス国教会の 宗教改革 は、 教会から浄化し、「清く」するには不十分だった。」 「ルイ16世の処刑から数週間の間、 フランスはイングランドやスペイン、オランダと交戦状態であった。 ヨーロッパ規模の同盟が成立し、それは後に、第一次対仏大同盟と名付けられた。」 「ジロンド派はジャコバン派を「アナーキスト」で「水平派(レヴェラーズ)」だと攻撃した。」 水平派(レヴェラーズ)は、キリスト教のプロテスタントの一教派で、 清教徒革命(イングランド内戦)期のイングランド王国および イングランド共和国で活発な動きを見せた急進的ピューリタンの一派である。 急進的社会改革を主張し大衆や軍に浸透、彼等と連動して改革実現を目指したが、 危険視した政府と軍首脳部に弾圧され衰退した。 ↓ カトリック、君主政のスペインが、ルイ16世の処刑に反対するのは理解できるのですが、 カルヴァン派の影響の強いイギリスとオランダがそこに加わっている仕組みはわかりません。 イギリスでもカルヴァン派が君主政に反対した、ということなので、 イギリス、オランダもカルヴァン派の一枚岩ではない、ということなのでしょうか? フランス革命勢力も、左翼も含めて、いろいろな立場があるようなので、 まだまだ理解するまでは、僕の研究が足りないようです。 いろいろな立場という視点を一つ付け加えると、 フランスのカトリックも、司教と司祭の上下関係(ヒエラルキー)は厳しく、 司教は貴族的、司祭は民衆に近かった、という違いはあったらしいです。

カトリック教会と君主政の敵

カトリック教会と君主政の敵は、 理神論者、自由思想家(リベルタン)、詐欺師、ユダヤ人とプロテスタントである。 ↓ フランス革命は、ユダヤ人(最初はセファルディム、後にアシュケナージ)の信仰を認めます。 大雑把に言って、セファルディムとはアジア系、 アシュケナージとは白人のユダヤ人を指します。 アシュケナージは、ハザール王国という改宗国家の末裔であり、 旧約聖書のユダヤ人とは、血がつながっていない、という主張もあります。 「ヘブライの館」「ハザール王国とユダヤ人」より http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fha200.html 「平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図」より https://blog.goo.ne.jp/efraym/e/ea3f3bdad01ee3815ed50aa18b8d9b8b 「ヘプバーンはユダヤ人ですが、正しくは白系ユダヤ教徒のハザールの子孫で、 血統的なイスラエル12部族とは違います。 ただし、祭司レビだけは13部族としてハザールに赴いたので、 ここからレビの血を継承することになった。」 プロテスタント(恐らくはカルヴァン派)の都市が、 ユダヤ人と近く、リベラルである、という特徴が、 フランス革命にも影響を与えているのかもしれません。 「理神論とは、神の存在を啓示によらず合理的に説明しようとする立場。 理神論は啓蒙時代に流行した。17世紀のスピノザらを起源として、イギリスで論争が起こり、 18世紀のフランス・ドイツの啓蒙思想家(フィロゾーフ)たちに受け継がれ、 フランス革命期の「最高存在の祭典」の思想的背景になった。」

フランス革命の「人民主権」は限定的

人権宣言は「すべての市民またはその代表」が法の制定に参加できることを、 「人民主権」の権利と定めていたが、 直接参加の線をどこに引くべきかは不明確であった。 最終的に議会は、すべての女性と成人男性のおよそ5分の2を排除した。 後者は3日分の賃金額に相当する租税を支払えないほど貧しい人びとである。

「国民万歳!ネッケル万歳!国民議会万歳!」

パンの値上がりは、貴族の地主たちが意図的に、 穀物供給を差し控えた結果であると広く考えられた。 ネッケルの運命が食料そうゆうと抵抗運動を、 暴力的な反乱行為へと変えた。 「ネッケル氏の打倒を必死になって目論む諸侯たちが、 彼をより効果的に失脚させるため、意図的に穀物を退蔵している」 7月11日のネッケル罷免は、こうした疑念を決定づけた。 7月14日、バスティーユは陥落した。 ルイ16世は、7月14日、ネッケルの召喚を宣言した。 ネッケル罷免後に大臣職にあったフーロンは殴り殺しにされ、首をはねられた。 1788年から1789年にパリ市民が経験した長期の飢饉を、 フーロンが謀って悪化させたという疑いへの報復であった。

カルヴァン派と国家財政の改善

1788年8月には、フランス国家は実質的に破産に陥った。 その打開策の一つとして、ネッケルを首席大臣として呼び戻した。 彼は1781年に解任された際、たとえ不正確だとしても、 民衆からは国庫を黒字化したと信じられていた。 ネッケルはラモワニョンの提案した司法改革を素早く退け、 当面の国家破産を回避するために十分な資金を、 借り入れることができた。 ↓ カルヴァン派を登用すると、財政が良くなる、 という仕組みがあるのだろうか。

フリーメーソンはブルジョア

フリーメーソンの普及は、貴族的エリートの規範から外れたところにある 独特なブルジョア文化の表現の一部をなしていた。 (フリーメーソンについては情報が錯綜しているので、 あくまで1つの見方にすぎませんが。) 科学、進歩、理性、啓蒙、自由、百科全書、消費文化、世界市民、 人間に普遍的に内在する権利、愛国者(パトリオット)、民主主義、 などなど、ブルジョア革命には興味深い思想が含まれていますが、 マルクスの共産主義、プロレタリアートによる階級闘争 を忘れてはならないでしょう。 ブルジョア革命は、絶対王政と神権政治を批判しましたが、 経済的弱者(労働者)には、搾取の思想で臨んだのです。 「ガゼット・ド・レイド」というブルジョア的雑誌は、 プロテスタント(恐らくはカルヴァン派)により、 賃金労働者の手の届く範囲をはるかに超える支払いで、 オランダで発行された。

ネッケルは貴族ではない。

ネッケルは、ルイ16世が任じた唯一人の貴族出身でない大臣であった。 ↓ ネッケルは貴族ではなく、カルヴァン派のブルジョアであり、 フランス革命の、反貴族という特徴を示しているのかもしれません。

フランス革命とカルヴァン派のネッケルの関係は?

ルイ14世によるナントの王令廃止(1685年)以降、 18世紀を通じて王政によるプロテスタント弾圧が繰りかえされたが、 「啓蒙の世紀」が後半に進むにつれて弾圧政策への疑義が広まり、 ルイ16世は1787年には「寛容王令」に署名し、 プロテスタントに信仰の自由は公認しなかったものの、 彼らの存在は合法化した。 カトリック教会の側は、こうした状況に危機感を持った。 … (フランス革命の進展に対して)、 宮廷からの反撃の手始めとして、 それまでとかく第三身分に融和的な態度をとる 自由主義官僚の財務長官ネッケルが、7月11日に罷免された。 ここから、事態が急変する。 ネッケル罷免の知らせは、欲12日午後に首都パリに届き、 午後から市中が騒然となった。 14日には、早朝からおそらく数万の民衆が、 バスティーユを取り囲んだ。 100人以上の死者のでた銃撃戦のすえに、 民衆はバスティーユを占領した。 ↓ フランス革命は、聖職者、貴族に対して、 ブルジョア(第三身分富裕層)による革命だとされていますが、 ネッケルの罷免が関係ある以上、 フランス革命の主体は、富を蓄えているカルヴァン派と関係があるのだろうか? もしかするとブルジョア革命とは、カルヴァン派による革命なのか? フランス革命とカルヴァン派の諸国と関係があるのかどうかは、 興味深いところです。 この推論には根拠はありませんが。

カルヴァン派と東インド会社の関係はいかなるものか?

ルイ16世時代の財務総監の1人、フランス革命前夜に活動したネッケルは、 ジュネーブの大銀行家の家に生まれ、プロテスタントであり、 東インド会社に関する投機で、巨額の富を築いた。 東インド会社は、アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社。 ネッケルは、穀物の自由取引をはげしく攻撃する、 重農主義批判の著作で知られている。 当時おこっていたアメリカ独立戦争の莫大な戦費を調達するために、 宝くじ、終身年金の売り出しや、パリ市、聖職者会議、地方三部会を 介しての間接的借入れ、また自分の知名度を利用して、 オランダ、スイスなど外国銀行からの借入など、 あらゆる手段で大規模な借金政策を展開した。 東インド会社再建の銀行家的流儀でもって、 国家財政をまかなったわけである。 増税なしに戦費を調達するネッケルの手腕に、人気は高まり、 公債売買でうるおうパリの投機業者はこれを歓迎した。 ↓ 恐らくはカルヴァン派であるネッケルが、 経済的自由主義を否定しているのは、興味深いですね。 ネッケルの論敵であるのテゥルゴの、 「自由主義的方向性が特権や独占の享受者に警戒心を強めさせ、 高等法院と通ずる国璽尚書ミロメニルはこれを阻止しようと暗躍した。」 特許会社という国策とか規制と資本主義の関係は、 僕にはまだまだ理解不能です。 ちなみにアメリカ独立戦争は、フランス革命の親である、という見方もあります。

子供は知恵の実を食べていない。

人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。 エデンの園の中央にある木の実を食べると、神のように善悪を知る者となる。 彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。 すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。 彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。 ↓ 子供は裸を恥ずかしがりません。 イエスが、幼子のようになりなさい、と説くのは、 幼子が、知恵の実を食べておらず、エデンの園にいるからなのでしょう。 イエスが無実なのに血を流したのは、 幼子が苦しむのと同じことなのです。

ノアの箱舟

主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、 地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 主は言われた。 「私は、創造した人を地の面から消し去る。 人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。 私はこれらを造ったことを悔やむ。」 だが、ノアは主の目に適う者であった。 … その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。 神と共に歩んだのはノアであった。

司祭と世俗教師の対立

フランスの「19世紀には原則として、農民や労働者の子供と、 弁護士や医者の子供がともに学ぶことも、 男女が同じ場所で同じ教育を受けることも想定されていなかった。 19世紀のフランスは、子供の教育の指導権をめぐって、 カトリック教会と国家の間でヘゲモニー(覇権)争いが起こった時代である。 時代をさかのぼって、フランス革命以前に子供の教育に関して、 強い影響力をもっていたのはカトリック教会であった。 非キリスト教化を推し進めたフランス革命により状況が変わったとはいえ、 19世紀には再び教会の威信の回復を望む勢力があり、 信者を改めて獲得するため学校を利用しようとした。 他方で、革命を継承しなければならないと考える人びとは、 教会の影響力の拡大を警戒し、聖職者ではなく、 世俗の教師による公教育の普及に努めようとした。 女子教育についてナポレオンは、 『私は、若い娘の教育に国家が取り組むべきだとは思わない。 娘をよりよく育てられるのは母親しかいない。… 信心深い女性を育ててください。理屈っぽい女性ではなく』と述べた。 女性は慎ましく、信心深く、よき妻・母になるための教育を受けるのが理想であった。 女性教師として、修道女に白羽の矢が立ったのは不思議ではなかろう。 ナポレオン治世下の1804~1813年に認可された女子修道会は、95を数えた。

フランスとイエズス会の関係

フランスの「カトリック勢力は一枚岩だったわけではない。 ローマ教皇権の介入をできる限り排除しなければならなかった。 この点で、イエズス会士は、 入会時に「教皇への服従」の誓いを立てていたため、 常に微妙な立場にあった。 世論はイエズス会士を「教皇の手先」とみなし、 彼らへの反感のまなざしを強めていく。 最終的に、1764年の王令により、王国内のイエズス会の廃止が決定されるに至った。 イエズス会の活動がフランスで再開するのは、 フランス革命、さらにナポレオン第一帝政が終わった1815年に入ってからである。」

カルヴァン派の都市

フランスの、1685年のナント王令の廃止、すなわちプロテスタント信教の禁止による、 数千人の亡命者が、外国で海運業を営むことによって、 「ロンドン、アムステルダム、ニューヨーク、ボストン」などを結ぶ、 カルヴァン派の交易ネットワークの素地を作った。 カルヴァンの実践は「ジュネーブ」でなされた。

カペー朝からヴァロワ朝へ、百年戦争の始まり

「新しく学ぶフランス史」より 「フィリップ4世の子は…いずれも短命で、 男子の後継者を残さなかった。 1328年、王位はフィリップ4世の弟シャルルの家門、ヴァロワ家に渡る。 この王位継承に意を唱える者たちによって、 1337年に戦端が開かれる。これがいわゆる百年戦争である。」 「少なくともカペー家とヴァロワ家の王たちは、 自らの国が新しく生まれたものであるとは考えていなかった。」 百年戦争で重要なのは、ジャンヌダルクです。

アルビジョア十字軍、アナーニ事件、アビニョン捕囚とノガレの関係

アルビジョア十字軍(1209~1229年)と、 アナーニ事件(1303年)、 アビニョン捕囚(1309年~1377年)を結ぶ重要人物として、 ギヨーム・ド・ノガレという人がいます。 ノガレの祖父は、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた、 『アルビジョア十字軍』により、異端として処刑されました。 ノガレとしては、その報復なのでしょう。 ノガレが仕えたフランス王・フィリップ4世は、 ローマ教皇ボニファティウス8世を『アナーニ事件』で襲撃し、 教皇はその直後に憤死しました。 1309年には、教皇がフランスのアビニョンに捕囚される、 『アビニョン捕囚』が始まっています。 (教皇のバビロン捕囚とも呼ばれる)。 このアビニョン捕囚の政策にも、ノガレは関与しています。 https://www.y-history.net/appendix/wh0904-082.html 「ガリカニスム(フランス教会自立主義) フランスのカトリック教会はローマ教皇から分離し、 王権が教会に優先すべきであるという、国家教会主義の思想。 フィリップ4世の時の1303年のアナーニ事件のころから盛んになってきた。 さらに教皇のバビロン捕囚と教会大分裂が続き、 教皇権の衰退が進む中で、さらに強まっていった。」 ↓ この『ガリカニスム』とは『ガリア(ケルト)主義』のことです。 ちなみに、フィリップ4世は、フランスのカペー朝の王なのですが、 カペー朝はカロリング朝の次のフランス王朝です。 (カロリング朝は、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなっています)。

ローマ帝国の暗愚な皇帝とドルイド教に関係はあるのか?

はっきり覚えていないので、誰かに調べてほしいのですが、 ミシュレによると、古代ローマ帝国の愚かな皇帝とされている人たちは、 ガリア(ケルト)のドルイド教を信仰したから、 キリスト教から低い評価を与えられているのではないか?という。 ガリア人(ケルト人)はローマ共和国の、ユリウス・カエサルに征服されましたが、 その文化の影響は未だにフランスに残っているらしいです。 カエサルと戦ったガリア人、ウェルキンゲトリクスは、ウィキペディアによると、 「近代に至ってもウェルキンゲトリクスはフランス最初の英雄、 ガリア解放の英雄とされ、かつてアレシアの町があった 現在のアリーズ・サント・レーヌ村にはナポレオン3世の命によって銅像が建てられた。 また、フランス人彫刻家フレデリク・バルトルディ作のウェルキンゲトリクスの像が、 クレルモン=フェランの中央広場に建てられた。 そのほか、サン=ジェルマン=アン=レーには彫刻家エメ・ミレー作の像が建てられている。 最近では、1959年に始まったフランス発でヨーロッパとその旧植民地全体へ広がった人気漫画 『アステリックス』シリーズにはウェルキンゲトリクスの姿が投影されている。」 ミシュレによると、ガリア人は自由を好む人種だとのことですが、 (ゲルマン人はリーダーシップを好むらしい)、 僕が適当に類推すると(根拠はありませんが)、実存主義者サルトルが、 「この不条理な世界に投げ込まれ、自由の刑に処された、いまだ何者でもない…」 と自由を好むのも、もしかするとガリア人の文化が影響を与えているのかもしれません。

メロヴィング朝カトリックと数学、天文学との関係は?

トゥールのグレゴリウスによる「フランク史」から引用 「あなたに読書のための文法を教え、論争の問題提起の方法を指導し、 修辞学における韻律の作り方、幾何学における地面や線の割りふり方、 天文学の星の運行の観察、代数学の数の性質、 音の調べをうつくしい言葉の抑揚にぴったりあわせる術をすべて教え込み…」 トゥールのグレゴリウスは、西暦573年に司教になっているので、 「幾何学」「代数」「天文学」など理系の勉強をしているのが、 時代として早いことに驚かされます。 「フランスの歴史を知るための50章」によると、 西欧社会でアリストテレスが本格的にしられるようになったのは、 12世紀からだという。 「自然界の物体の運動や生物(魂)の仕組み、倫理や政治の構造について、 その全体を体系的かつ合理的に説明するアリストテレス哲学の 実質的な本体が伝わったとき、彼の哲学的諸著作は熱心に読まれた」 ルネサンスのラファエロが、 アリストテレスを登場させている「アテネの学堂」 という絵画を描いたのが、1509年、1510年の間。 歴史家のミシュレによると、 ルネサンスの建築家ブルネレスキ(1337-1446年)は、 建築に数を持ち込んだことが画期的だという。 「彼の建築空間は、透視図法の幾何学性を通じて形成されたと説明されることがある」 wikiから引用すると、 「中世=暗黒時代観」 従来の一般的な見方は次のようなものである。およそ1000年間にかけて ローマ帝国の国教になり、西洋人の宗教信仰となった 純粋なキリスト教支配のもと、西ヨーロッパ圏では 古代ローマ・ギリシア文化の破壊が行われ、 世界に貢献するような文化的展開をすることはできなかった。 こうした見方はルネサンス以前の中世を停滞した時代、 暗黒時代とみなすものである。 現在では古典的な古代文化の復興はイタリア・ルネサンス以前にも 見られる現象であることが明らかにされている。 9世紀のフランク王国の「カロリング朝ルネサンス」や、 10世紀東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の「マケドニア朝ルネサンス」 および帝国末期の「パレオロゴス朝ルネサンス」、 西ヨーロッパにおける「12世紀ルネサンス」などがあり、 これら(複数のルネサンスとも呼ばれる)…」 トゥールのグレゴリウスは、 メロヴィング朝の時代の人であり、 9世紀のカロリン...

レジリエンスという考えの罠

レジリエンスとは心理学の用語で、 「同じようなストレスフルな体験をしても、 心理的・社会的に不適応に陥る者もいれば、そうでない者もいる。 深刻な危険性にもかかわらず、適応的な機能を維持しようとする現象」 のことを指し示します。 しかし『感情の歴史』という歴史書によると、 レジリエンスとは、労働者が過酷な状況に置かれても、 それに耐えられる搾取に、都合のよい労働条件を、肯定するために考え出されている、 と主張しています。 『児童や女性の労働実態』 石炭運びをしているエリソン=ジャックという11歳の少女の言。 「わたしはお父さんのために3年間も地下で働いています。 お父さんは朝の2時にわたしを下へおろし、翌日の午後1時か2時にわたしは上ってきます。 そして、あしたの朝すぐに仕事にいけるように、夜の6時に寝ます。 わたしが入る炭鉱の部分は、鉱層がまるで刃のようになっています。 わたしは石炭を背負って、脚立ないし梯子を4つのぼり、 やっと炭鉱の端に通じている主坑道にでます。 わたしの仕事量は桶に4~5杯で、桶には216キログラムはいります。 わたしは20往復で桶5杯をいっぱいにします。 命令どおりやれなかった時は、むちでぶたれます。」 「1883年の工場法(一般工場法・幼児労働の禁止や18歳未満の少年の長時間労働禁止)では、 ロバート=オーウェンの主張する工場監察官の設置も定められたが、 炭鉱労働の調査はおくれていた。」 苦しみの原因を、人間の内面に求める考えは、 社会による抑圧、搾取を隠蔽する傾向があります。 「社会じゃない、お前が変われ」と述べた作家がいますが、 「お前じゃない、社会が変われ」と僕は言いたい。 主体的な在り方と、社会的な構造の、双方を、改善していくことが重要なのでしょう。 『レジリエンス』のように、上層階級の隠された意図をもつ情報は極めて多い。 キリスト教の教えが、王侯貴族に歓迎されるのも、 この世での搾取を耐え忍べ、という意図が働いているのかもしれません。

国家と愛は正反対のものである

イエスは、神を受肉した人間でした。 神は移り変わる物ではない。人間は生まれ、死ぬものである。 イエスは、十字架にかかり、死ぬまでの間は、 ただの肉体にすぎませんでした。 十字架にかかるまでに、数々の奇跡を起こし、 死後、三日目に復活するイエスは、神だったのです。 イエスは、「カエサル(ローマ皇帝)の物はカエサルへ、神の物は神へ返しなさい」と言いました。 国家と神は別なものだと、イエスは説くのです。 フランスのルイ14世は、国家を受肉した人間でした。 「朕は国家なり」とは有名な発言ですが、 絶対王政、王権神授説など、イエスの原理と正反対の象徴なのです。 ルイ14世はカトリックで、プロテスタントを追放しました。 フランスのプロテスタントはユグノーと呼ばれ、カルヴァン派です。 カルヴァン派は世俗内禁欲によって、富を蓄える、という教えであり、 資本主義の精神を用意した宗派でした。 ユグノーを追放したことにより、フランスの経済は傾いていきました。 僕の推論を始めますが、 イエスは、善行を金銭の増大にたとえ、善行を稼いできなさい、 といった教えを残したと思います。 この「稼ぎ」を文字通り、現実世界の金銭蓄財と曲解したのが、カルヴァン派なのではないか? 新約聖書では、お金を蓄えてはならない、という教えが強く主張されています。 一方、カトリックの方は、聖書に忠実と言えるのでしょうか? イエスは、貧しき人、さげすまれている人たちが、死後に救われると説いています。 ヴァチカンによる、免罪符を買うことにより、罪は許される、という主張は、 間違った金集めであり、それに反対(プロテスト)したのが、ルターでした。 (プロテストという言葉を使ったのはルターではありません。) ルターは、教会ではなく、「聖書のみ」という教えを説きました。 ラテン語ばかりであった聖書を、ドイツ語訳して、多くの人に広げたのもルターでした。 (ルターは、新約聖書をギリシア語から、旧約聖書をヘブライ語から翻訳しました。) 印刷術の発展もあり、聖書が多くの人に読まれるようになり、 キリスト教は、教会のヒエラルキーの上層部から、一般庶民へ解放されました。 もっとも、カトリックの上層部が、間違いを自覚しつつ、 イエスのような強者についていけない一般庶民を導いているのだ、という意見もあります。 ドストエフスキーの「カ...

メロビング朝のカトリック

クローヴィス1世(481年にメロヴィング朝を始める) はカトリック教徒の妻の影響により、カトリックに改宗しました。 以下、メロビング朝の時期のカトリックの概観をしてみます。    1,アリウス派との論争 カトリックでは三位一体(父、精霊、子は同格)であるのですが(アタナシウス派)、 他のゲルマン民族に普及していたキリスト教アリウス派では、 新約の神は旧約の神より劣る、イエスは神でなく人間である、といった主張をしています。 カトリックの方が、新約の神と、イエスを重視していた、ということです。 2,ユダヤ人はキリスト教に改宗させる。 ユダヤ教もやはりイエスを認めません。ユダヤ教は旧約聖書しか認めないためです。 カトリックでは、イエスは、神を受肉した肉体であるため、 旧約から新約聖書への進展を理由のあるものと考えます。 3,ゾロアスター教との論争 ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれ、火を信仰しています。 しかしカトリックから見ると、 火は人間の手で点火でき、消すこともできる、 そのような物が神のわけない、という考えをとります。 4,良いことは信仰に従ったため、悪いことは信仰に背いたため。 病気が治ったり、戦争に勝つのは、人間の力量によるものではなく、 信仰があつかったため、と考えます。 信仰の厚い聖者は、イエスが死人を蘇らせたように、 信者の病気をなおすことができます。 逆に病気にかかったり、死亡したり、敗戦したりするのは、 カトリックの信仰にそむいたためと説明されます。 5、 古代ローマの詩人ウェルギリウス(前70年ー全19年)の叙事詩、 『アエネーイス 』は認めている。 アエネーイスはラテン文学の最高傑作と言われているらしいのですが、 カトリックから見て異教であるはずのラテン文化が、 カトリックにも影響を与えていた、ということなのだろうか? 後代のルネサンスは、ギリシア文化、ローマ文化の復興という性格を持つのですが、 メロヴィング朝の時期にもローマ文化が認められていたとすると興味深いですね。

罪と罰の二人目の殺人の理由

 ドストエフスキー「罪と罰」で、 ラスコーリニコフが、なぜ二人目の殺人を犯したのかは、 金持ちの強欲な老婆だけでなく、心の清い者を殺すことで、 悪魔にとりつかれていたことを、表現するためではないか?と僕は推測しています。 https://ks-novel.com/crime_and_punishment/-/28163/.html ラスコーリニコフは長らく無神論者の立場に徹していました。実はラスコーリニコフの正式名をロシア語にすると、イニシャルが「PPP」になります。それをひっくり返せば「666」になります。つまり「 悪魔、反キリスト 」といったメッセージが名前に隠されているのです。

十八史略の人物学より(某病院雑誌未発表分)

「わが政治に節度がなく、みだれていいるからであろうか。民が職を失い 露頭に迷っているからであろうか。 自分の住んでいる宮殿が立派すぎるからであろうか。 女の内奏うがさかんで政治の公明さがうしなわれているからであろうか。 賄賂が横行し、正道を害しているからであろうか。 讒言がまかり通って、賢者が退けられているからであろうか」 湯王は六つのことを挙げて自分を責めている。 政治は、権力と組織と離れることのできない関係にある。 人間の持つ願望のうちで、最も深刻なのが権力欲である。 酒や金に対する欲望などは、権力欲に比べれば、まだかわいいものである。 人が人を支配する欲望…これにとっつかれると、人間は一変して、汚職もやれば、賄賂もやる。 ときには骨肉をも平気で犠牲にする。 しかし、この反面、人間は、この権力を天から授かったものと考え、 己を空しくして、祖国や同胞のために尽くすという理想主義精神をも発達せしめた。 その何れの精神をもった人物が政治を担当するかによって、国民の禍福が分かれることは言うまでもない。 明の呂新吾が、大臣を6つにわけて評価している。 第一等の大臣は、私心や作意というものが全くない。 あたかも人間が日光に浴し、空気を吸い、水を飲みながら、これを意識しないのと同じように、 何とはなしに人々を幸福にし、禍はいまだ来たらざるうちに消してしまう。 といって、すごく頭が切れるとか、勇気がある人だとかという評判や、 大変、華々しい手柄をたてたというようなこともなく、知らず知らずのうちに人民がそのお陰を受ける。 とにかく、いるかいないのか、わからないような存在でいながら、人民に無事太平を楽しませている。 …第二等の大臣は、いかにもしっかりしていて、テキパキと問題に取りくんでゆく。 剛直、直言、まっすぐに堂々と本当のことが議論できる。 したがって、やや、叡知や気概が露われて、ときには物議をかもしたり、反発や抵抗を招く。 しかしいかなる障害があろうとも、敢然として、主張すべきは主張し、 やるべきことはどしどしやってのける人物である。 …第三等の大臣は、ひたすら事なかれ主義である。悪いことはもちろんやらないが、 といって善いことも進んでやらない安全第一主義の大臣で、 人間的な面白みは全くないが、安全なことは、まあ間違いない。 …第四等の大臣はとくに私利私欲をほしいままにして...

十八史略の人物学より14

司馬遼太郎は次のように言う。 「武士の悲しみとは、合戦のつど、妻子と死別を覚悟せねばならぬことではなく、 常に旗幟をあきらかにせねばならぬところにある。 旗幟をあきらかにするというのは、得体のしれぬ未来に向かって、 自己を主家の運命と賭博に投ずることなのである」。 まさしく、トップの意思決定もそういうものである。もともと、経営をやるのはトップであって、 決して、副社長でも、専務でも、あるいは労働組合の幹部でもない。 社長の決断こそは、「一人によって国は興り、一人によって国は亡びる」という結果になる。 そこに「行為する者」の厳しさがあるのだ。ところが「行為せざる者」の立場にあるジャーナリストは、 もともと、うぬぼれの強い人種だから、政治や経営について書いているうちに、 現実と論理との境界がわからなくなり、「俺だって「行為する者」になれる」という錯覚を起こす。 「国会議員になると、国鉄のグリーン兼のパスがもらえる。 そのパスで、初めてグリーン車に乗ったときは、いかに国家の選民とはいえ、 俺だけが自由にただで乗っていいのだろうか、と思った。 ところが、何度も乗っているうちに、グリーン車の席があいていないと不愉快な気持ちになった。 権力というものは恐ろしいものですね」。実に些細な実例だが、精神が堕落してゆく断面を浮き彫りにしている。 「政治における最悪の態度は決定を行いえない態度であり、 さらに悪いのは、相矛盾する決定を行うことである」。 国の指導的地位にある人間が、事に当たって明確なる決定を行う勇気に欠け、 部下から、あるいは国民から、その軽重を問われるようなことがあると、 それは本人の不幸であるばかりでなく、国家を滅亡へ追いやることになる。

十八史略の人物学より13

とある日本の総理大臣は「総理になると、三つのものが見えなくなる」と言っている。 第一に「金」である。総理は職権で存分に金が使えるから、金の価値がわからなくなる。 第二に「人」である。しらずしらずのうちに取り巻きができて、 総理の耳にさからう情報は入ってこなくなる。 第三に「国民の顔」がどちらを向いているのかわからなくなる。 そして「この三つめがわからなくなったときに、総理大臣はのたれ死にする」と言いきっている。 それを予防するためには「すぐれたジャーナリストを絶えず傍に置くこと」である。 つまり、総理たるものは、フォーマルな情報網だけでは不十分で、 インフォーマルな情報網をもっていないと判断を誤るということである。 …玉ねぎは八百屋の店先で見ると、外側が赤茶けたり、泥がついている。 それが玉ねぎなんだ。ところが、その玉ねぎを部下が係長や課長にあげるおきは、 泥のついた赤茶けた皮をむいて、これが玉ねぎだと言って見せる。 そして、課長が、この玉ねぎを部長に見せるときは、また二皮ばかり向いて見せる。 それと同じく部長も皮をむいてくるから、社長のところへくる玉ねぎは、 中の芯だけの小さなものになっている。それを「玉ねぎでございます」と言われて、 まるまる信じたら、とんでもない間違いをやらかすことになる。 では、なぜ優秀なジャーナリストを傍に置くといいのか。 それはジャーナリストは「時代と社会」とに密着しているから、世間の実態を吸収できるからである。 これをどう使うかは、ひとえにトップの器量だが、 もちろんジャーナリストの限界も心得ていないと、とんでもないことになる。 それは「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である」ということだ。 政治家とか、経営者とかは「行為する者」であり、ジャーナリストは「行為せざる者」である。 「行為せざる者」は火の粉をかぶったことがないから、 火の粉をかぶって「行為する者」の痛みは絶対にわからない。 足を踏みつけている者に、踏まれている人間の痛みがわからぬのと同じだ。

十八史略の人物学より12

「なぜ、あなたは私がお好きなの」と聞かれて、「あなたは美しいから」と答えるのは愚答である。 また、こういう愚答を喜ぶような女性だったら、たいしたことはない。 「あなたが正直で清潔で美しいからだ」前の愚答よりはましだが、 妙な男の気どりがあって、女性をとろけさせすまではいかない。 「わたし、とてもとても好きなの。理由なんかないわ」 批判の働いている恋愛というものは、それだけで純粋ではなく、 純粋でない恋愛など、まだ恋愛とは言えない。恋は盲目であり、盲目だから美しいのだ。 「自分はここに残って西郷先生と行を共にする」 「かの人はまことに妙である。一日、かの人に接すれば、一日の愛生ず。 三日、かの人に接すれば、三日の愛生ず。しかれども予は接するの日を重ね、もはや去るべくもあらず、 今は、善悪を超えて、この上は、かの人と生死を共にするほかない」 孔子は学問的な鍛錬を欠く人間の必ず陥る偏向について、子路を戒めた。 「学問によって鍛錬されたことのない愛情、それは愚者の愛情である」 「断片的な知識だけを見につけて、腹にずんとおさまった哲学をもたぬと、 それは単なるものしりにすぎない」「学問を伴わぬ信義、それはヤクザの仁義にすぎない」 「単純率直が好きというだけで、いろいろな場合の適応を学ばぬと、 偏屈な正義感によって、人に自説を押しつけることになる」 プルタークは「シーザーの妻は一切の嫌疑をもたれてはならない」と言っている。 いつも賄賂がもち込まれるのは裏口であり、裏口をあずかるのは妻であるからだ。 そして、裏口が落ちたら、落城はもはや時間の問題である。 したがって、シーザーの妻は、たんなる噂をも恐れるほど潔癖でなければならないのである。

十八史略の人物学より11

せっかく、知識や見識をもっていても、胆識がないと、優柔不断に陥ってしまう。 いうなれば、この「胆識」をもった人物が第一等のサムライであり、 「見識」を備えたのが第二等のサムライ、 ペラペラした「知識」だけが第三等のサムライとも分類できるのである。 漢の名宰相、蕭何が主流に収まっているうちは、仲の良くない曹参は、 「反主流の俺には用はない」と地方の知事か何かに出てくすぶっていた。 たまたま、山東地方の知事で、鳴かず飛ばずをきめこんでいたとき、「蕭何没す」の報が届いた。 すると曹参は、すぐ召使たちに上京の仕度を命じた。 「いったい何事でございますか?!」と妻がいぶかると、 「いや、何、蕭何が息をひきとるときに、 この俺を後任の宰相に推薦していったに違いないと思ってな」と答えた。 妻は驚いて、「そんな馬鹿なことは、よもやございますまい。蕭何さまとあなたとは、 人も知る犬猿の仲ではございませんか」と笑うと、それをジロリと見て、曹参がたしなめた。 「たしかに、お前の言う通り、仲はよくなかった。しかし、それはあくまでも個人的なことだ。 天下国家の公儀のこととなれば、後継宰相は俺をおいてないことを蕭何が一番知っとるんじゃ」 果たせるかな、一週間も経つと「後継宰相に命ず」という恵帝の使者が到着した。 …人間は生地のままの自分を人生にぶっつけてゆくよりしかたない。 「俺はこういう人間だ。愛せるなら愛してくれ!」 …白楽天の詩「増えたのは年功とともに増していった勲章の数々。 しかし、実事、つまり内容のほうはだんだん空っぽになって、 自分の周囲を取り巻いているものといったら、バカらしい虚事ばかり」 …いかに線の太い人物であっても、八十を過ぎれば、あと何年生きられるかと考えるだろう。 そして、それは同時に「死は何か?」を考えることである。いかに美しく老いるか、いかに美しく死に臨むか。

十八史略の人物学より10

論語に「民は之を由らしむべし。知らしむべからず」とあるが、 これほど間違って伝えられた言葉はない。 「民衆というものは愚かなもので、言って聞かせてみたところで事理のわかるものではない。 それよりは、手っ取り早く、何も知らせず、威をもって服従させればよい」というふうに誤伝されてきた。 いわば、封建時代の独裁君主の専制の口実として利用されてきた。 しかし、意味は全く違うのである。 これは「為政者というものは、民から万幅の信頼を寄せられることが何よりも肝要だ。 複雑に入り組んだ政治の実体を民に理解させるのは、本来とても難しいことなんだから…」の意味である。 なるほど、民衆はなかなか事理を悟らない。それで政治は、ある具体的な形を民衆に示して、 それに従うようにさせるのが一番である。そのあるものとは何か? まず、指導者が身をもって模範を示し、そのあと、俺についてこいということである。 孔子と子貢との問答。「サムライとは、いかなる人物をいうのでしょうか」。 孔子は言う。「第一に自分の行動に責任を持ち、恥を知っている人物であること。 さらに近隣の国々に使いして、君主の命令を完全に果たし、 国家の名をはずかしめない人物であれば士ということができよう」子貢はその次の人物を問う。 孔子は言う。「人間は、ちょっと小金を貯めたり、地位があがると、 肩で風をきって威張ってみたくなるものである。驕慢になるのだ。 ところが、そういったところが全くなく、一家一族の連中が、 あの人は本当によくつくしてくれると誉める人物、また郷土の人たちが、 誰しも、あの人は奥床しい人だと賞賛する人物が第二等の士である」これもなかなかむつかしい。 子貢はその次のサムライを聞く。孔子は言う。「自ら言った言葉は必ず真実であり、 物事を実行するにあたっては、とことんまでやりとげる、という人物であれば、 ま、第三等のサムライといえよう。 ただし、この種の人物は道ばたにころがっている石ころみたいにコチコチで融通がきかぬから、 しばしばやることがぎくしゃくするよ」 子貢は尋ねる。「しからば、現代の政治家はどうでしょうか」孔子は言う。 「器量が小さくて十把ひとからげの連中ばかりだ。お話にならん」 …この問答から「知識」と「見識」と「胆識」について考えさせられる。 本来、知識などは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られる。 学校へ...

十八史略の人物学より9

秦王をへこまして帰ると、藺相如はその功績をかわれて上席家老の位につき、 レンバ将軍の上になった。レンバとしてはまことに面白くない。そこで次のように言った。 「わしは趙の武将として、千軍万馬の功があるのに藺相如はただの口先だけの働きで、 わしの上につきおった。奴はもともと卑賤の出のくせに、まことに生意気千万な所業じゃ。 今度あったら、きっと、赤っ恥をかかせてくれる」 …レンバが怒っているのをきいた藺相如は、できるだけ顔をあわせるのを避けた。 朝廷に出仕して、レンバに逢いそうなときには、病と称して欠席し、 外出の折にも、はるかにレンバををみかけると、車を脇道へひき入れてかくれた。 このため、藺相如の家臣たちが口惜しがって口々に主人にうったえた。 「わたしどもが、こうして、あなたにお仕えしているのは、 あなたのご高義を慕っておればこそでございます。 しかるにご主人はレンバ将軍を避けて逃げかくれなさる。 これは凡愚の者でも恥じるところ、あまりに意気地のないことではありませんか」 …藺相如は静かにさとした。 「わたしが秦王を叱りつけたことは、お前たちも知っていよう。 いくらわたしが愚鈍であるからといって、どうしてレンバ将軍を恐れよう。 よくよく考えてみたまえ。あの強暴な秦が、わが趙に戦争をしかけてこないのは、 このわたしとレンバ将軍がいるからだ。 もし、いま、その両虎が闘ったなら、勢いの赴くところ、ともには生きられまい。 わたしが敢えてレンバ将軍を避けるのは、国家のことを先にして、 個人的な恨みつらみを後にすべきだと思うからだ」 …これを伝えきいたレンバ将軍は、肌脱ぎになって茨を背負い、 藺相如の邸に赴いて罪を詫び、以来、二人は生死を共にすることを誓いあった。

十八史略の人物学より8

秦王は趙王と約束して会合をもった。藺相如は趙王に従ってその会合に出た。 酒宴になったとき、秦王は「余興にシツ(楽器)をひいてくだされ」と趙王に申し入れた。 シツは遊女が座をとりもつために弾くものであるから、 それを趙王に弾け、というのは重大な侮辱だが、 「ここは我慢のしどころ」と趙王は甘んじてシツを弾いた。 おさまらないのは、趙王の側に侍っていた藺相如である。シツが終わるのをまちかねたように 「このおかえしに秦王どの自ら、缶をたたいて、秦の流行歌をうたわれし」と言うと、 秦王は「何を言うか」と一言のもとにはねつけた。 缶とは、酒や醤油をいれる土器で、 シツなどの高級な楽器がない秦の文化の低さを象徴するものだったから、断れるのは当たり前だった。 秦王が断わると同時に藺相如が怒号した。「秦王と藺相如との間はわずかに五歩の距離。 もし、応じられぬとあらば、わが首を斬って、血を秦王にそそぎかけることもできますぞ!」 つまり、秦王と刺しちがえて死にますぞ!とにじり寄ったのであった。 秦王はやむなく缶をたたいてうたった。 一国が侮辱を受けて、何もできぬのは、そのまま屈従を意味する。 藺相如は秦の圧力をはねのけて、趙の対面を保ったのだった。 こういう場合の応待辞令は気合と気合のやりとりである。

十八史略の人物学より7

孔子の孫の子思が戦国時代、衛公に仕え、 「コウヘンこそ武将として、大いに用うべき人材である」と推薦したが、 衛公は、なかなかその言葉を容れない。 理由は「コウヘンは、かつて役人をしていたとき、 人民に税を割り当てたついでに一軒から卵を二つずつ徴発して、自分のポケットに入れた。 そんなちょろまかしをやる人間を、将軍の要職につけるわけにはいかない」ということだった。 早速、子思は衛公にくいさがった。「聖人が人を用いるのは、あたかも大工が材木を扱うのと同じで、 その長所をとって短所を捨てる。柳や梓は、もともと良材である。 その良材が数かかえもある大きさであれば、たとい、数尺の腐った部分があっても、 名工は決して捨てたりはしないものだ。まして、大人物は多少の欠点があっても、これを捨ててはならない」 …今、世に時めいている人々は皆、難のうちどころがない。頭もよいし、才もある。 交渉も上手で、当たり障りもない。大して酒も飲まない。まことに整っているが、さっぱりうまみがない。 感激がない。可もなし、不可もなしという類である。 それより、何よりも欲しい男は、もっと手ごたえある男で、 こういう人物には凡人のもちえない短所もあるが、それがまた、えもいわれぬ魅力でもある。

十八史略の人物学より6

「たしかに勧めました。だが、あのいくじなしめは、聞き入れませんでした。 だから、誅殺されたのです。もし、きゃつが拙者の計を用いておれば、 陛下も、ああ、やすやすとは奴を消せなかったでしょう」 傍若無人の言い方に激怒した劉邦は「煮殺してしまえ!」と叫ぶ。 「はっ」と答えて、左右がカイトウを引き立てようとすると、カイトウは大声で喚いた。 「ああ、さてもさても、おれは無実の罪で殺されるのか」 劉邦は、ますますいきりたって、「うぬは韓信に謀反を勧めたのじゃ。無実の罪とは何を言うかっ!」と叱りつけると、 カイトウは、今度は落ち着きはらって言った。 「しばらく、心を静めて聞かれい。始皇帝が死んで、秦の権威が衰えたとみるや、 山東地方は大いに乱れ、群雄割拠し、大変な騒ぎとなったことを、よもやお忘れではありますまい。 この英雄、俊傑たちが目ざしたところは皆一つ、秦の失政に乗じて、自ら天下を掌握したいということでござった。 かかる乱世には、早いもの勝ち、力の強い者勝ちで、誰が正当で、 誰が不正当であるかということは全くなかったはずでござる。 それはあたかも、一頭の鹿を多数の猟人がおうようなものでござった。 その場合、犬が、その主人以外の者に吠えつくのは当然のことでござる。 当時、拙者は韓信の家来で、陛下とは赤の他人でありました。 そういう拙者が、韓信に天下を取らせようと考えるのは、当たり前のことではござらんか。 そのころ、天下を取ろうと思った英雄、豪傑は陛下だけではなく、雲のわきあがるごとくあちこちにいました。 ただ、彼らは力及ばず、その野望が実現しなかっただけのことでござる。 その者ども全部を捕えて煮殺すことなど、とても出来る相談ではありますまい。 だから、拙者は無実の罪で殺されるというのです」 さすがに「斉の雄弁家」と言われたカイトウである。 劉邦はカイトウの言うことにも一理あると思い、「まあ、よかろう。許してやろう」と言って、釈放した。 こういうところが、劉邦の英雄的態度である。ずいぶんと欠点の多い人間であったにもかかわらず、 なお、当時の豪傑たちの間で魅力があったのは、ここなのであろう。

十八史略の人物学より5

かつて韓信がひそかに反乱を策しているという情報を得た高祖は、 策で、韓信を生け捕りにしてしまったことを指しているのだ。痛烈なる皮肉である。 しかし、韓信は、いっこうにこたえぬ顔で鮮やかなころし文句をつかう。 「陛下は、兵卒の大将としては十万程度ですが、 しかし、立派に将軍たちの大将となる才能をおもちです。 のみならず、陛下という位は、いわゆる天下からさずかった運勢つまり天命であり、 人力の及ぶところではござらぬ」 高祖は、この「命がけのお世辞」に大満悦の態だったが、しかし、韓信の最後の一言は、 とりようによっては、「陛下などと威張りくさっているが、 ただ、運がよかっただけのことじゃないか」とも解釈できる。 これは漢民族のもっとも得意とする表現方法で、どちらが本心なのか、さっぱりわからぬ。 おそらく、韓信としては、精一杯の抵抗をこめたのではないか。 反乱を企てた韓信は、漢の高祖の妻、呂后に捕らえられた。斬られるとき、韓信は言った。 「おれはカイトウの計を用いなかったのが残念でならぬ。 あれを用いなかったために、このような女狐風情にあざむかれてしまった。天命じゃわ」 呂后は韓信の三族を根絶やしにした。 …漢の高祖、劉邦は韓信の殺されたことを知り、不安の種のなくなったことを喜びもしたが、 かつての交情や功績を思って、その末路を憐れみもし、呂后に問うた。 「韓信が死ぬとき、何か言ったのじゃろう」 「カイトウの計を用いなかったのが残念でならぬ。あれを用いておれば、 こんなことにはならなかったろううに、とまことに無念そうでございました」 「ふうむ、カイトウか。すぐ捕えろ」 ひっぱられてきたカイトウを前に引きすえた劉邦は、厳しい言葉を浴びせかけた。 「そちは韓信に謀反を勧めたか」カイトウはいっこうに悪びれない。

十八史略の人物学より4

「窮乏の友に友たるは、友の最も大なるものなり」とはプルダークの名言だが、 人間、調子のいいときだけが友人ではない。 一朝、事敗れて尾羽打ち枯らそうと、ときには間違って監獄へはいろうと、 「あいつだけは俺を信じていてくれる」という友人が一人でもいたら、 それだけで、この世は十分に生きる価値がある。 誰でも友だちというが、それを信用しているのはバカ者だ。 世に「忘年の交」という。老人は若い連中と交わって、その経験や学問を教え、 若いものは老人の歩いた足どりから何かを吸収し、 次の飛躍をめざすという文字通り「年を忘れ、齢を超越して、互いに心を許して交わること」である。 …隠居入道してからの最高の楽しみは、人を育てることだ。 …給料をもらっているからといって、そうそう、上役のご機嫌とりばかりはしないぞ。 いささかの酒を含みながら、古典を語り、人物を論ずるくらい楽しいことはない。 漢の高祖が、韓信と酒を飲みながら、諸将の将器について論じたとき、 韓信は一人一人を俎上にのせて明快に評価していった。 「某某は兵三万の将、某某はせいぜい五万までだが、なにがしは七万までは統率できましょう」 興にのった高祖は一膝のりだしてきいた。 「朕などは、どのくらいの兵の大将となれるだろうか」これはむつかしい質問である。 下手な返答をしたら首がとぶ。ところが韓信は平然と言ってのけた。 「陛下は十万の将たるに過ぎず」 むっとした高祖が「そういうお前さんはどうなんだい?」ときり返すと、 韓信は「私は二十万よりは三十万のほうが、五十万よりは百万のほうが、 とにかく多ければ多いほど、ますます、うまくやります」 高祖は不愉快さをかくそうともせず、とっさの切り札をぶつけた。 「兵が多ければ多いほどうまくやるというお前があ、 じゃ、どうして、わずか十万の将にすぎぬ朕のとりことなったのか」

十八史略の人物学より3

とある起業家がみすぼらしい六畳一間にいた。 どうして大金持ちが奥さんとこんな汚い部屋にいるのか、とたずねると、 「自分たちはいくら考えてみても、あまりに恵まれすぎている。 無我夢中で働いているうちに運勢に恵まれて、このように何一つ不自由のない身分になったが、 考えてみると、何だか恐ろしいみたいで、ひとつ厄払いをしようということで、 毎年ここへきて一か月間、この汚い部屋で厄を払っているのだ。」 ひとたび、よかろうと許し合ったら、地位や肩書にかかわりなく、 とことんまで相手を信ずるし、付き合う。イデオロギーなどは無関係だ。 その典型は管鮑貧時の交わりであろう。管仲が鮑叔と組んで商売をしたことがある。 儲けを分けるときに、管仲は鮑叔より余分にとったが、鮑叔は、 決して管仲を欲ばりとは思わなかった。理由は、管仲が貧しいことを知っていたからだ。 また管仲が、鮑叔のためによかれと計ったことが、かえって鮑叔を窮地に陥れてしまった。 しかし鮑叔は、管仲を、馬鹿な奴!と恨んだり、軽蔑したりはしなかった。 ものごとというもは、運の向いているときには、何をやってもうまくゆくものだが、 いったん風向きが変わって、時に利あらずとなると、どうあがいてみても、 うまくゆかぬことを知っていたからだ。 さらに、管仲は戦にでるたびに負けて逃げかえってきた。 だが、鮑叔は管仲を「卑怯者」よばわりは絶対にしなかった。 なぜならば、管仲には年老いた母がおり、管仲に万一のことがあれば、 孝養をつくすものがいなくなり、どんなに母が嘆き悲しむかを知っていたからである。

十八史略の人物学より2

唐の太宗が臣下に聞いた。天下の経営を新しく始めるのと、 すでにできあがっているのを守っていくのとでは、どちらがむつかしいいだろうか。 とある部下は、創業の苦労をいやというほどなめているので、創業のほうが難しいと答える。 …しかし、一つのパターンがある。天下を平定しても、つい気がゆるんで、 酒池肉林の楽にふけるのである。 したがって守っていくほうが難しいのではないか、という部下もいる。 …太宗は語る。両人の意見は、まことにもっともである。 だが、いちおう天下太平となった今、創業の困難は過ぎ去ったとみていいだろう。 というのは、守成の時代にはいったという意味である。 これからは、諸侯とともに驕奢を戒め、慎重に一歩一歩、天下の基礎を固めていこうではないか。 たぎった時代、変革期、乱世にはたぎった人物が輩出する。 組織は否定され、今までの型にはまらない独立した創造的人物が輩出する。 ところが、このたぎった人物も、さて自分の事業を継がせる段になると、 自分と同じたぎったタイプは、絶対に選ばない。 一か八かの大勝負を張られ、失敗されて元も子もなくされてはかなわぬ、という心理である。 …創業の華やかさに比べて、守成は地味である。 それだけに、創業よりもむしろ守成に、忍耐と根気強さと人間的器量とが要求される。 新渡戸稲造は語る。勇気を修養するものは、進む方の勇ばかりでなく、 退いて守る力の沈勇もまた、これを養うよう心がけねばならない。 両者そろって、初めて真の勇気となる。 …范蠡は言う。金と名誉の両方を長い間独占していたら、必ず不幸のもとになる、と言って、 宰相の印を返し、財産を全部、縁故者にばらまき、大事な宝だけをもって、人目をさけた。

十八史略の人物学より1

学問の仕方には4つの段階がある。記憶、血肉化、呼吸をするように学ぶ、 ゆったりと遊ぶように学ぶ。…禅の修行はまず苦行である。やがてそれは遊戯三昧に入る。 座禅を組む。足が痛い。だが次第に座禅が楽しくてしようがなくなる。 …人間は人間を信ずる以外に手はない…人間以上に有用なものはなく、 人間以上に良いものはなく、しかも最大の不幸は人間からくる。 …出処進退の退を見る。退いて後継者を選ぶ、その企業において、 自分がいなくなっても、仕事が回っていくようにする。自分を無にするのである。 …主に憂いがあるときには労し、主が辱められたときには死をもってあだを報いるべきである。 そして戦いに勝った時には臣下は君主のもとを去るのである、と范蠡は言う。 越王の勾践は、范蠡に越に残るように、さもなければ殺すぞ、と范蠡に伝える。 范蠡はすでに逃げていた。范蠡は言う。艱難は共にできても安楽を共にするのは難しい。 …范蠡の次に力量があった文種は、越王、勾践への未練を断ち切れなかった。 そして病と称して出仕しなくなった。 文種をやっかむ連中が、この際とばかり、越王、勾践に中傷した。 文種は反乱の準備を進めていると。勾践も最初はそんな馬鹿なことがあるものか、と思っていた。 しかし多数の者が繰り返し中傷するうちに、ひょっとすると、と疑惑を覚える。 勾践はついに文種に自殺を命じた。 …英雄の多くはまことに身勝手である。用事のある間はナンバー2の才能を大事にするが、 功業成って収穫期にはいると、かつては下へもおかぬほど大事にした功臣を次々と粛清してしまう。 英雄はすべて独裁者である。たとえば毛沢東が。

共産党宣言より4

プロレタリアは強いられた無家庭と公認の売淫とに追い込まれている。 社会秩序は、男女の関係を、当事者だけが関係し、社会が干渉してはならない、純粋に私的な関係にするだろう。 これまでの結婚とは、私的所有によって妻が夫に従属することである。 ここに、共産主義の婦人共有などという道徳堅固な俗物どもの非難にたいする答えがある。 すなわち、婦人の共有とは、まったくブルジョア社会だけにあるもので、 現在売淫の形で完全に実在しているような関係である。 売淫は私的所有にもとづくもので、したがって私的所有がなくなるとともになくなる。 だから、共産主義の組織は、婦人共有をもちこむのではなく、むしろこれを廃止するのである。 労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級にたかめること、 民主主義をたたかいとることである。 共産主義者は、自分の見解や意図をかくすことを恥とする。 共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。 支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアはこの革命によって鉄鎖のほかにうしなうなにものもない。彼らの得るものは全世界である。 万国のプロレタリア団結せよ!

共産党宣言より3

プロレタリアートの勝利のためには、私有財産の撤廃が必要である。そのためには何が必要か? 私的所有が完全に廃止されるまで社会の全員にたいする平等の労働義務、産業軍の編成が必要である。 累進税、高度の相続税、傍系(兄弟、甥などの)相続の廃止、強制公債等による私的所有の制限が必要である。 私生児に嫡出子と平等な相続権をあたえることが必要である。 国立銀行を通じて、貨幣取引を国家の手に集中し、すべての民間銀行を禁止することが必要である。 私有財産が無くなれば貨幣は必要ではなくなる。 産業の経営、全ての資本、農業、工業、作業場、鉄道、運輸、交易、をたがいに競争する個人の手からとりあげ、 そのかわりに、共同の計画にしたがって、経営させるようにしなければならない。 こうしてそれは、競争を廃止し、そのかわりに、協同社会をもってくるであろう。 あらゆる生産用具を共同で利用し、みなの合意によってあらゆる生産物を分配するのである。 各人が、ただ一つの生産部門に従属し、その部門によって搾取され、 他のすべての素質を犠牲にしてただ一つの素質だけをのばし、 生産全体のなかの一部門だけしか知らないような人間では、生産の共同経営などはやれない。 社会全体が共同で、また計画的に経営する産業は、あらゆる面に素質の発達した、 生産の体系全体を見とおせる人間をなによりも前提としている。 プロレタリアートの教育は、若い人々が生産の全体系を非常にはやく経験できるようにする。 それは、彼らが、社会の必要や各人の好みに応じて生産部門の系列を順々にうつることができるようにする。 このようにして、共産主義的な組織になった社会は、 各人に、彼らの全面的に発達した素質をあらゆる方面にのばす機会をあたえるだろう。 そのために、子供を共同で教育し、また子供が両親に従属することをなくすこと、 すべての児童にたいする公共無料教育、児童の工場労働の廃止が必要である。

共産党宣言より2

機械と分業とがすすめばすすむほど、労働時間の延長によってであれ、 一定の時間内に要求される労働もまた増大する。労働者大衆は、工場につめこまれて軍隊式に編成される。 彼らは、平の産業兵として、下仕官と将校との完全な職階制の監督のもとにおかれる。 ブルジョアによる自由競争は、大工業の始まりには、必要欠くべからざるものである。 なぜなら、それは大工業がおこりうる唯一の社会状態だからである。 ブルジョアジーは、こうして貴族と同業組合員との社会上の勢力をうちほろぼしたのち、 政治上の勢力もうちほろぼした。彼らは、代議制の採用によってこれをなしとげた。 代議制というのは、法律のまえでのブルジョア的平等、すなわち自由競争の法律的承認にもとづくものであって、 ヨーロッパ諸国では立憲君主制の形で採用された。 この立憲君主制のもとでは、ブルジョアだけが、選挙権をもっており、代議士、政府をえらぶのである。 精神的生産は物質的生産とともに変化する。ある時代の支配的な思想は、 つねにその支配階級の思想にすぎなかった。 法律、道徳、宗教は、そのいずれも、背後にブルジョアの利益をかくしもっている。 キリスト教の禁欲主義に社会主義的な色あげをほどこすほど、たやすいことはない。 キリスト教も、私的所有にたいして、結婚にたいして、国家にたいして、反対した。 そして、それらのかわりに、慈善と托鉢を、独身と禁欲を、僧房生活と教会主義を、説教した。 教会社会主義は、貴族の怒りに神の祝福をあたえるために、坊主のそそぐ聖水にすぎない。

共産党宣言より1

ブルジョアジーとは、雇用者のことである。 ブルジョアジーのもっとも根本的な条件は、私人の手中への富の増大である。 プロレタリアートとは、賃金労働者のことである。 ブルジョアは生産手段を持ち、プロレタリアートは自らの労働以外に売る者がない。 昔は原始共産主義社会だった。この原生の共同体が解体して、対立する諸階級へ分化した。 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人、 つまり抑圧するものと抑圧されるものとは、つねに対立した。 ブルジョアジーは、人と人とのあいだに、ろこつな金勘定のほかには、なんのきずなをものこさなかった。 ブルジョアジーは、医者や法律家や僧侶や詩人や学者を、自分たちのおやといの賃金労働者にかえてしまった。 ブルジョアジーは、家族関係をただの金銭関係に還元した。 ブルジョアジーは、農村を都市に従属させ、未開国を文明国に、東洋を西洋に、従属させた。 フランス革命は、封建的所有を廃止してブルジョア的所有を実現した。 プロレタリアートは、産業革命によって発生した。 産業革命は、蒸気機関などの機械装置の発明によってひきおこされた。 これらの機械は大資本家だけが調達できた。機械はこの労働者が紡ぎ車でつくるよりは安価な商品をつくることができた。 こうして、これらの機械は、工業を大資本家の独占物にし、労働者のわずかな財産(道具)をがらくたにした。 労働は、ますます分割されるようになり、以前は一製品を完全につくっていた労働者も、 いまではこの製品の一部分だけをつくった。 この分業は、生産物を、いっそう急速に、したがっていっそう安価に、提供できるようにした。 プロレタリアの労働は、機械の普及と分業との結果、その独立性をまったくうしなってしまった。 プロレタリアは機械のたんなる付属物となり、きわめて単純単調な操作を要求されるにすぎない。

新約聖書より8

(十字架にかかった)イエスは大声で叫んで、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言われた。 →旧約聖書、詩編の言葉からの言葉です。イエスも死にたくなかったのかな? 『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。 …イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。 →肉体が変わっても、霊として同一人物である、というイエスの復活は、霊による肉に対しての勝利である、という主張があります。 創造者は初めから人を男と女とに造られ…人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。 →ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、男性中心主義かもしれません。 イブはアダムの肋骨から創られた話とか。婦人たちは教会では黙っていなさいとか。 イスラム教では、女性が頭や身体を覆うとか。 共産主義のマルクスは女性の解放を目指しています。 聖書の評論を終えますが、僕自身、誰かに操られて書かされているのではないかと、感じることもありました。

新約聖書より7

人の子がきたのも…多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。 →殺されるのがわかっていても逃げないイエスは、理性でなく熱情の人でした。 ヘーゲル哲学は、理性を重視しすぎると、否定する神学者もいます。 イエス・キリストは…長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、 殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 …時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、 「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。 すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 …その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。 …イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 …ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。 弟子たちもみな同じように言った。しかし弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。 …イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、 「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。 ユダは銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。 →イエスほど魅力があっても、地上の原理ではイエスについていけないらしい。 ただしユダはイエスを裏切ったことを、文字通り、死ぬほど後悔したのですね。

新約聖書より6

「世の終りには、どんな前兆がありますか」。 …「人に惑わされないように気をつけなさい。 …多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 …また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。 それは起らねばならないが、まだ終りではない。 …民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 … しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。 … そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 …そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 …また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。 …また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 …しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。 人の子の現れるのも、そのようであろう。 →とある歴史家は、旧約聖書の創世記を読むことは、最低限のスキルだと述べています。 洪水や大地震などの災害は、神の怒りによる罰なのではないか?という主張もあります。 堕落した町で、純粋な心を持った人だけが、ヤーウェやエリ(神の名前)に救われるのです。

新約聖書より5

もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。 →砂漠でイナゴと草の根だけを食べながら、信仰を守る狂信者は、本当に奇跡を起こせるのではないか、 という主張を、ドストエフスキーは書いています。統合失調症の方の中には、超常現象を体験した人もいるのではないですか? イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、 また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 そして彼らに言われた、『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。 それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。 →不正に対しては、イエスも激しい言動を起こすのですね。 攻撃性の問題に関しては、サディズムが、キリスト教に対しての反対の立場をとっています。 浅田彰は、マルキー・ド・サド(作家、サディズムの語源)原作の、 パゾリーニ監督による映画「ソドムの市」を批評しています。 不正を正す態度と、他人の自由を奪うサディズムは別なんですね。 「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」 地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。… また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。

新約聖書より4

〇また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。 イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。 〇私より父また母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。 〇『父と母とを敬え』。 →先祖崇拝、家族の団結を説く宗教もありますが、キリスト教は違うのだろうか。 矛盾した考え方ががイエスによって主張されていますが、父母の否定が新約聖書には繰り返されています。 〇(イエスのことを否定して)見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だと言う。 →太宰治は、イエスがよっぽどの酒好きなのだろうと主張しています。イエスにも人間味があるのですね。 〇心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう… 自分を低くする者が、天国で一番偉いのである。 〇この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。 →幼子は大人と違って、知恵の実を食べておらず、純粋なのですね。 とある歴史家の意見では、「心の純粋さは金では買えない」「この世は試みの場所にすぎない」とのことです。 イエスは結婚式にワインが足りなくなった夫婦のために、水をワインに変えるという奇跡を起こしました。 ワインも買えないほど貧しい人たちと一緒にいたのだと、ドストエフスキーは説明しています。

新約聖書より3

『〇もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、 下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。 〇『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 あなたがた自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあろうか。 〇空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。 それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。 あなた方は彼らよりも、遥かに優れた者ではないか。なぜ、着物のことで思いわずらうのか。 野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 〇人を裁くな。自分が裁かれないためである。自分の目には梁があるのに、 どうして兄弟に向かって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。 〇何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。』 ➡イエスが十字架にかかるのは、引用した聖書の断片を見てもわかるように、 生存原理を徹底的に否定したからかもしれません。あまりにも偽善と妥協しなかった。 狂信的宗教者はこの教えを守るとドストエフスキーは書いています。 この世の原理と背反する点で、発狂とキリスト教に関係はあるのだろうか。 マルチン・ルター(宗教改革者、プロテスタント)は、バチカン(カトリック)の教皇の豪勢な暮らしぶりを見て、幻滅しました。 ルターは現れた悪魔にインク瓶を投げつけたこともあります。 イエズス会の一人は、ルターが誇大妄想狂の精神異常者と判断しています。 イエスも、母と兄弟姉妹に発狂したと思われ、身内の者たちに取り押さえられそうになっています。 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」

新約聖書より2

『「目にはめを、歯には歯を」といえることあるを汝ら聴けり。 されど…悪しき者にてむかうな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。… 下衣を取らんとする者には、上着をも取らせよ。』 『なんぢら神と富とにかねつかうること能はず。』 ↓ イエスは大金持ちの弟子に、全ての財産を、貧しい人びとに施しなさいと教えます。 地上の富ではなく、天国(神)に富を積めと。 しかしその弟子は、施すことができず、悲しんだとのことです。 『何を食べ、何を飲むか…何を着ようか…思いわずらうな。 空の鳥を見よ、種をまかず、刈らず、倉に収めず、然るになんぢらの天の父は、これを養いたまふ。』 ↓ マックス・ウェーバーは、キリスト教プロテスタントと資本主義には、相関関係があると主張しています。 カトリックは、ある程度は、その日暮らしに近いらしい。 『栄華を極めたソロモンでさえ、その服装を、花ほどにも飾らなかった。』 ↓ キリスト教は、ファッションとは、背反しています。 『イエス言葉にて霊を追い出し、病めるものをことごとくいやしたまへり。』 『彼は自ら我らの病気を受け、我らの病を負う。』 ↓ イエスは、皮膚病、熱、悪鬼につかれた者を直します。 自然科学的ではない奇跡の問題は、新約聖書の難しいところの一つでしょう。 病を自ら負う、という発想は、十字架を背負うことの中心的な考えです。 十字架を交換して、互いの苦しみを分かちあう、という小説(罪と罰)もありますね。

新約聖書より

「バステスマのヨハネは…駱駝の毛織衣をまとひ、腰に皮の帯をしめ、蝗と野蜜とを食とせり。」 「イエスは…悪魔に試みられる。「なんぢ若し神の子ならば、命じてこれ等の石をパンと為らしめよ」 答えて言い給ふ。『人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づるすべての言による。』 ↓ ドストエフスキーはパンからの自由を問題にしています。大半の民衆はパンを求めて悪魔についていきます。 キリスト教は少数の者しか救いません。 『狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その道は広く、これより入る者おおし。』 「『悪魔についていくなら…イエスに…もろもろの国と、その栄華を与えよう、と』 イエスは言います。『サタンよ、退け。主なる汝の神を拝し、ただこれにのみつかえ奉るべし。』」 ↓ イエスの天国はこの世のものではありません。地上の権力をつかまないことが大切であると。 「イエスは言います。『色情を懐いて女を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり。』」 ↓ ヨハネの黙示録では、ハルマゲドンについて、女を知らない人たちがバビロニア (性風俗の乱れた、貧富の差の大きい、大都市) との戦いを起こすと書かれています。 「もし右の目なんぢをつまづかせば、えぐり出してすてよ、五体の一つ亡びて、 全身ゲヘナに投げ入られぬを益なり。もし右の手なんぢをつまづかせば、切りすてよ、 五体の一つ亡びて全身ゲヘナにいかぬは益なり。」 ↓ ゲヘナとは、永遠に続く炎の地獄のことです。そこに落ちない為の悔い改めが重要だと。

タバコはいいの?

ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つのだ(ヘーゲル)。 ミネルヴァの梟は暁に飛び立つのだ(ニーチェ)「注、この一文は間違いだと後に判明しました。」 ヘーゲルが夕暮れと言ったのは、物事を終わりから認識することが哲学だと考えているからです。 人間は自分が何かをしているときに、偶然の集まりとして、その行為を考えている。 しかし、実は神による必然性のなかに人はいて、その必然性のなかに人はいて、 その必然性を認識することが、哲学だと考えているからです。 それに対してニーチェは終わりからではなく、未知なる出来事を体験することが重要だと考えました。 そのために暁、つまりは物事の始まりが重要だと。 ニーチェはキリスト教と仏教を、同情の宗教として否定しました。 力あるものがただしいのだと。 この発想は、プラトンによる、力よりも正義が重要だという主張にたいして、 ソフィストの反論、正義よりも力が大切だという考えに影響を受けています。 力あるもの、といってもギリシア時代のソフィストとニーチェが全く同じ主張をしているわけではありません。 ニーチェは、強者は少数でしかなく、畜群、一般大衆からの乖離は避けられないと考えています。 強者は視線を水平に保ち、それから下の存在しか見ず、上には視線を上げないのです。 これはキリスト教が神を敬う、つまり見上げることを主張していることに対する反論である可能性もあります。 (強者は対等の存在が現れたら、いやいやながら自分と同じ高みにあると認めるのです。) ヒルティー(眠られぬよるのために)によると、キリスト教徒は悩み、苦しみ、病気を 受けれ入れてもいいのではないかと考えています。 なぜならイエスが無実の十字架にかかって苦しんだからです。 ニーチェは逆にデュオニソスの生命力(アポロンの知性にたいする)を肯定します。 身近なテーマだと、ニーチェはタバコの喫煙は、肺を痛めながら快楽をえるので間違っていると主張します。 自傷だからイエスにつながると。

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