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ニッパーダイを読みながら9

「農業は、植物由来あるいは動物由来の物を生産することを通して、利益を生み出し、 あるいは金銭を得ることを目的とする職業である。」 それは、資本主義的な経済観であり、 収益・採算性・利益の最大化・即物性・計算性といった新たな現象を伴っていた。 それは、アダム・スミスの精神に沿って確立された、農業経営学である。 農村部には、大農場主・農民・農業労働者という3つの階級があった。 大農場領主は、農業起業家としての大農場主に、 生まれに基づく身分から、所有に基づく階級に変化した。 大農場は動産化したのである。だから売却ができるし、所有者も変えられる。 1850年代までは、騎士農場主の50パーセント近くが、市民出身となっていた。 経営の仕方という点で、新たな階級全体の「市民化」が起きたのである。 とは言え、貴族の側は1848年までは、市民階層の出身者を、 政治的な機関から追い出そうと努めた。 長い時間をかけてようやく、彼らは統合され、 ある程度まで受け入れられるようになったのであり、 部分的には、市民は後に貴族に叙されたのである。 とは言え、新たな農業起業家たちも、「騎士」であることに変わりはなかった。 封建的特権の名残が、残存していたのである。 免税特権・狩猟権・領主裁判権・地域の警察権などである。 1837年になっても、住民の3分の1は、 国家ではなく、騎士の裁判権の下にあったのである。 さらには教員や聖職者を選任する「保護権」、村長を任命する権利があって、 農民による自治行政は、発展させられることができなかった。 従順でない者は、貴族が杖で打ち据えるというようなことが、依然としてしばしば起こった。 封建的な優位と資本主義的な優位、 そして、それぞれに伴う利益獲得のチャンスとが、1つに結びついていた。 1848年の革命は、狩猟権や領主裁判権のような、封建的特権の一部を撤廃し、 一時的には、1856年まで、大農場主の警察権も廃止した。 自由主義的な政府は、地方自治制度の革命を計画して、 村を、騎士農場主の支配から解放することを目指し、 そして1850年になっても、官僚主導の反動政府は、「脱封建化」を目標として掲げた。 しかし、それも三月革命以前の状態への復帰を求める反動の前に挫折した。

ニッパーダイを読みながら8

住まいのあり方は、階級によって分かれる。 労働者は「悲惨な」「賃貸用アパート」、 狭苦しい空間と粗末な設備によって、特徴づけられていた。 芸術家や文人は、1830年代頃からは、 もはや主として宮廷社会ではなくて、市民階層の家で交流するようになる。 1800年頃の農村では、自給自足が通常のタイプだった。 次第に、食糧の商業と購入が決定的な意味を持つようになっていく。 1年の長いリズムに基づく自家供給が退けられていき、週単位の供給に切り替えられた。 購入と金による供給は交換を早めることを可能にし、 商業はより多くのものを提供するようになる。 飢えとカロリー不足は、1850年代に、大衆貧窮が終わりを迎え、 下層の人々の間でも、砂糖と肉の消費量が増えていく。 しかし労働者の食事は、市民階層のバランスのとれた栄養状態の下限部に位置していた。 労働者世帯は、依然として収入の50~80パーセントを、 食物に支出しなければならなかったのである。 看護の分野は、カトリック修道会の修道女や、 プロテスタントの社会奉仕団を通して、専門職化されていった。 国家は、健康への権利に配慮しなければならなかった。 共同体は、個人の財産とは関わりなく健康を保つための、 諸条件を配慮する義務があるのである。(上下水道の整備による衛生面改良など)。

ニッパーダイを読みながら7

どのようなタイプの家族にとっても、離婚は法的には、 (プロテスタントの場合には教会法的にも)可能だったけれども、 例外的なケースに留まっていた。 外部からの歯止めと、内面化された結婚モデルとが、 情緒的な個人主義や「ロマンチック」な恋愛に伴う、主観的な感情の変化を抑止していた。 家族は、言わば自明なものと考えられていたのである。 下層の人々の家族では、家庭を築くうえで法的・経済的な障害が存在していた。 農村での家内工業の広がりと、農業労働者としての働き口の増加が、 家庭を築く新たな可能性を生み出して、 日雇い労働者や小作人の家族という古いタイプを拡大した。 また、子供が生まれるのは、働き手が増えるということをも意味したのである。 プロレタリアに関しては、家庭を持たないことを強いられるという生活形態があった。 ロマン主義的な恋愛観は、友情と官能との二元状態を、 エロチックな結婚において解消しようとした。 逆に、女性の理想化と家庭への集中が、セクシャリティを抑圧し、 女性から厳しく官能を遠ざけた。

ニッパーダイを読みながら6

ロマンチックな恋愛は、物質的な重荷を負うことが少ない、 「上層」階級のみに限られた。 二人の出会いは、何かしら運命的なものであるのであり、 一目見ただけで陥った恋、運命の糸で結ばれた二人、 至上で絶対的なる恋、愛する人の完全無欠さ、大いなる情熱、エロチックな吸引力が加わる。 結婚は、「客観的」なもの、両親が環境や神によって相手を定めるものではなく、 「愛情」、自らの主観的な決断に基づくものとなったのである。 死は、キリスト教徒としての裁きと救済に目を向けた「私の死」としてではなく、 愛する代え難い家族の一員の死、「他者の死」「愛しい人」の死として経験される。 死は、公的な領域から私的な領域へ、 自然と神によって定められたものの甘受から、深い喪失感と取り残された悲しみへ、 儀式から、もはや形式化しえない哀悼へと移動する。 裁きと復活ではなく、天国で「再会」することが、新たな終末論の内容となるのである。 家族の各個人の墓が、ロマンチックに一か所にまとめられ、 墓石の前に、家族のメンバーが故人を偲びながら集まるという、 新しい墓地文化が浸透していたのである。 市民階層の妻は、以前よりも自由な立場を獲得する。 古典主義とロマン主義の理想のなかには、感情に対して敏感な側面があり、 例えば、家父長主義に比べれば、近代的な傾向を帯びている。 妻は以前よりもパートナーと見なされ、妻に配慮することが一つの新たな美徳とされた。 妻は、経済的な負担を軽減され、余暇が増え、教養が向上し、 会話のパートナーとして、役畜のように扱われたり、 母親としてだけ扱われたりするのではなくて、個人として扱われるようになった。 ロマン主義者たちは、女性の個体性を強調し、 散文的なシラーが、貞淑な「主婦」を理想としたことを嘲笑して、 まさに神秘的なまでに女性を賛美する。 1815年以降になると、教養の重視が、男女の区別を強調することにも繋がっていく。 なぜなら、職業と政治のために必要とされる男性の教養は、 若い女性に求められる教養とは異なるものだったからである。 新たな意味で、妻は夫に服従させられるのである。 この見解によれば、妻は内に向かって、家族のために生きるのであり、 世の中に乗り出すことはなく、夫のように「冷静な」合理性を持たず、 ナイーブで、あれこれ考えを巡らすことのない存在と見なされた。...

ニッパーダイを読みながら5

18世紀のドイツでは、近代的な家族という制度が成立する。 この革命的な変化は、まず市民階層から始まって実現する。 旧世界では、子供の死亡率が高く、結婚した相手の死亡率もかなり高い。 平均的な結婚期間は20年と短く、死が結婚期間を短縮しているのである。 孤児や再婚は当たり前のことであった。 結婚は、家を持つことと結びついており、市民層でも労働者層でも、 結婚する前に金を貯めなければならず、結婚年齢は比較的に高かった。 旧世界では、子供たちは14歳頃に奉公のために家を出た。 自宅では、奉公人や職人、すなわち下働きをし、ともに働き、修行している、 家族以外の人間が生活共同体としての「家族」に属していた。 このような家族は、生活共同体であると同時に、生産共同体でもあった。 もっとも、これらの家族の場合にも、核家族へと収束していく傾向があった。 すなわち、都市では老人や未婚者が外に出されていくようになり、 職人が、そして後では徒弟が、しだいに手工業者の所帯から離れていき、 大規模な農民のばあいでも、主人と奉公人が分かれて住むようになった。 農民や手工業者の家庭は「私的」なものとは言えず、 隣人や同業組合(ツンフト)仲間や牧師・司祭の目に晒されていた。 家族のあり方が社会的に監視されていたのである。 大都市が社会的な監視を緩めるようなってようやく、家族は私的で隔離された存在となった。 「市民的」で個人的な、新しい家族観を獲得するようになったのである。 配偶者の選択については、18世紀の後半以降、農民と手工業者の場合にも、 もはや親が一方的に決めるものではなくなった。 しかし、農民や手工業者の間では、ロマンチックな恋愛、個人的な愛情が、 結婚の動機として、特別な役割を果たすことはなかった。 実際的な能力があるか、財産があるか、世話をしてくれるか、 互いに折り合えるか、といった点が決定的な意味を持ったのである。 昔ながらの見解によれば、愛情は結婚の前にあるのではなくて、 結婚とともに愛情が芽生えてくるものとされた。 無秩序で不道徳な男女の出会いは、官僚たちから敵視され、 最終的には、学校と人びとの流動化と産業化によって、力を奪われていった。 結婚は、宗教的に、教会による結婚予告、祝別、教会記録簿への記載、 家族への祈祷を通して、是認された。 まさに結婚において、人は、...

ニッパーダイを読みながら4

国家による大学というモデルは、教会ではなく、大学とは世俗的な機関であるということである。 聖職者の特殊な権利は、法の平等という観点から廃止される。 国家は聖職者のポスト、とりわけカトリックに関しては、 司教職への任命に多大な影響を行使した。 聖職者の養成教育は国家が扱う事柄とされ、教会の財政は国家によって規制された。 神秘主義や狂信主義は排除されるべきであった。 国家は礼拝や行列行進を行う回数と時間を定め、 教会の鐘を鳴らしたり、奇跡について説教したりするのを禁止した。 それらは、封建勢力と闘ううえで国家を強めた。 世俗化された教会は、脱封建化した。 高位聖職者はもはや貴族の独占するところではなくなった。 ナポレオン法典は封建的な社会を自由な所有者から成る社会に変容させるものであって、 土地領主制を撤廃するものだった。 しかし、封建的な権利と収入の撤廃は、法典が財産を保障している以上、 何らかの保障と結びついていた。 ナポレオンの貴族政策が、徹底した社会改革を阻んでいた。 貴族たちの権利は明確に保障されていたのである。 法治国家はリベラルとも言える。 個人主義と競争を解き放つという経済的・社会改革もリベラルと言える。 ナポレオン敗北後、メッテルニヒは勢力均衡と、 ナポレオンが皇帝に留まるのが、最も好ましいと考えていた。 しかし、ナポレオンは革命によって征服した地域を放棄することができなかった。 1814年、パリは連合国によって占領された。 25年間にわたった動乱は終わり、革命時代の後に、ヨーロッパに新たな秩序をもたらすことが、 ウィーン会議に与えられた任務だった。 ヨーロッパの貴族たちは、自らの世界が脅かされるのが終わったことを祝ったのである。 求められたのは、勢力均衡がもたらす秩序であり、諸国民の自由と自己決定に基づくのではなくて、 諸国家と諸王家の正当性に基づく秩序に他ならなかった。 ドイツにおける憲法制定要求においては、近代的な市民的=立憲主義的な契機と、 伝統的な身分制的=貴族支配的な契機とが、 依然として未分化のまま併存していた。 憲法は、自由主義的な意味を持つことがありえたし、 保守的・国家主義的・身分的な意味を持つこともあり得た。 ブルボン家が復位したことで、フランスの立場は急速に改善された。 イギリスもロシアも、和解と勢力均衡とフランス国内...

ニッパーダイを読みながら3

新人文主義の理念は、啓蒙主義の、分別と有用性、安寧と至福といった、 安易に通俗的なものと化してしまう理想に、否定的な立場をとる。 新たな構想の中心は個性である。個人は、人類の理念を実現する。 このような教養を身に付けることは、学校の場合とは異なって、 生涯にわたる終わりのない過程であり、 それゆえ自己目的、最高の価値ともなる。それは自己啓発とも言いえる。 このような教養は、実践の世界、労働と経済と金儲けの世界とは隔たっており、 専門教育とは異なるのである。 教養の形成は、生まれながらの本性をそのまま開花させることではなくて、 文化と書物を媒体としてなされる。 ギリシャ人には完成した人間性の理念が見出された。 ローマ人は個性を抑圧し、キリスト教は自然な本性を抑圧したが、 近代人は役に立つもの、特殊なものにだけ目を向けてしまっている。 これに対してギリシャ人は我々の文化の基礎を築いた人びとであるだけでなく、 すべての面を開花させるという理想を体現している人びとである。 この偉大な民族のあらゆる側面と取り組むことこそが、 我々の「魂の知的・道徳的・美的な諸力」を、 すべての面にわたってきたえることになる。 ギリシャ教が、十字架と原罪、救済と彼岸のような古くから受け継がれてきたものを追い払い、 此岸への信仰、人間の尊厳と美しさと完全さへの信仰に置き換える。 教養によって与えられる自由は、精神的で内面的な自由であり、 言わば周囲の政治的・社会的状況の彼方に位置するものであった。 そのような自由は、今日ではしばしば「内面性への逃避」という悪評を被っている。 それは通俗的な見方と言わざるを得ない。 そのような政治の彼方にある自由は、政治と社会が圧倒的な力をもって、 人間を超える自己目的となるような事態を補正するという点に、その意義を有しているのである。 そして、この運動を担った人たちは、決して政治から退いたわけではなくて、 そのようなメタ政治的な教養こそが、 まさに新しい政治への最も強い推進力であると考えられていたのである。 このような教養理念が1800年頃に成立し、そして勝利を収めたということは、 一つの驚くべき事実と言って良い。 18世紀に力を持っていた、封建主義・絶対主義・都市市民層・啓蒙主義・哲学・自然科学も、 そして19世紀を左右することになる産業社会の到来も、...