ニッパーダイを読みながら38
ハンガリーはオーストリアに対して、独自の議会主義的と自治を獲得した。 ハンガリーは、マジャール・ナショナリズムによって、 マジャール語を、隣接する諸地方に押しつけようとした。 これに対して、クロアチア人、セルビア人、ルーマニア人の抵抗が沸き起こった。 オーストリアに対するハンガリーの拒絶と、 マジャール・ナショナリズムに対する諸民族の拒絶とが、交差し合っていたのである。 左派は親ハンガリーである。 彼らは、ナショナリスト同士の国際的な連帯を信じていた。 急進的な赤いウィーンに対する反発は強まっていた。 マルクスは、夏の終わりにウィーンにいた。 ウィーンにおいてドイツの運命は決せられるのである。 ウィーンでは、急進主義的なウィーン革命が起こった。 それは国民的というより、国際的であり、 自由主義的ではなくて、急進主義的なものだった。 逆にウィーンは、反革命によって「征服」された。 オーストリアでの反革命の勝利が、ドイツにおける反革命の土台となった。 革命は、互いに対立し合う民族的な目標を、 すなわち、ドイツ人が指導する一つにまとまった全体国家、 マジャール人が率いる大ハンガリーの分離、 そしてスラブ諸民族の自治という、 それぞれ異なる目標を持っていたのである。 スラブ・ナショナリズムは反動的だという、 マルクスとエンゲルスによる非難は、不当なものである。 民族的な争いこそが、反革命が勝利を収めるのを助けたのだった。 民族間の争いによって、革命はすりつぶされてしまったのである。 大ドイツ主義は、どのようなオーストリアの分離にも反対した。 オーストリアはロシアに支援を要請し、ロシア軍はハンガリー革命を粉砕した。 ロシアはオーストリアの救済者となり、反革命の砦となったのである。