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ニッパーダイを読みながら3

新人文主義の理念は、啓蒙主義の、分別と有用性、安寧と至福といった、 安易に通俗的なものと化してしまう理想に、否定的な立場をとる。 新たな構想の中心は個性である。個人は、人類の理念を実現する。 このような教養を身に付けることは、学校の場合とは異なって、 生涯にわたる終わりのない過程であり、 それゆえ自己目的、最高の価値ともなる。それは自己啓発とも言いえる。 このような教養は、実践の世界、労働と経済と金儲けの世界とは隔たっており、 専門教育とは異なるのである。 教養の形成は、生まれながらの本性をそのまま開花させることではなくて、 文化と書物を媒体としてなされる。 ギリシャ人には完成した人間性の理念が見出された。 ローマ人は個性を抑圧し、キリスト教は自然な本性を抑圧したが、 近代人は役に立つもの、特殊なものにだけ目を向けてしまっている。 これに対してギリシャ人は我々の文化の基礎を築いた人びとであるだけでなく、 すべての面を開花させるという理想を体現している人びとである。 この偉大な民族のあらゆる側面と取り組むことこそが、 我々の「魂の知的・道徳的・美的な諸力」を、 すべての面にわたってきたえることになる。 ギリシャ教が、十字架と原罪、救済と彼岸のような古くから受け継がれてきたものを追い払い、 此岸への信仰、人間の尊厳と美しさと完全さへの信仰に置き換える。 教養によって与えられる自由は、精神的で内面的な自由であり、 言わば周囲の政治的・社会的状況の彼方に位置するものであった。 そのような自由は、今日ではしばしば「内面性への逃避」という悪評を被っている。 それは通俗的な見方と言わざるを得ない。 そのような政治の彼方にある自由は、政治と社会が圧倒的な力をもって、 人間を超える自己目的となるような事態を補正するという点に、その意義を有しているのである。 そして、この運動を担った人たちは、決して政治から退いたわけではなくて、 そのようなメタ政治的な教養こそが、 まさに新しい政治への最も強い推進力であると考えられていたのである。 このような教養理念が1800年頃に成立し、そして勝利を収めたということは、 一つの驚くべき事実と言って良い。 18世紀に力を持っていた、封建主義・絶対主義・都市市民層・啓蒙主義・哲学・自然科学も、 そして19世紀を左右することになる産業社会の到来も、...

ニッパーダイを読みながら2

後期絶対主義の段階になってもまだ、統一的な国家、政府は存在していなかった。 特定の担当分野、特定の州を扱う雑然とした上級行政機関があるだけだった。 共通の組織や情報を欠き、例えば財政の全体を見渡すことができなかったのである。 国王は個人的な助言者に取り囲まれ、決定を下した。 このような古風な体制に対して、官僚たちは抗議の声をあげていた。 上級行政機関に代わって、担当分野ごとに分けられた各省から成る内閣が設置され、 国王に対して直接責任を負った。 しかし貴族に矛先を向けた改革は失敗することもあった。 官僚的国家と農村部で成立しつつあった市民的=農民的社会との双方に対して、 地方での権力を握るユンカー(大土地所有貴族)の地位が確立されることとなるのである。 「物事を自分で処理することに国民を慣れさせ、子供のような状態から脱却させねばならない」 「公共の事柄への参画」を通して「公益への関心が強まるとともに、 国民の精神を高める公共活動の魅力が強まるのだ」 それぞれの個人がそのようにして自らの受け身の姿勢、 自らの利害や私的なエゴイズムを乗りこえ、国家を強化するべきであり、 ヨーロッパに古くから伝えられた、イギリスという模範、 すなわち、政治的秩序は単純に国家と個人とを対置させる上に成り立つのではなくて、 数多くの中間権力の上に成り立つのであって、まさに地方自治体こそがその基盤であって、 さらに、都市の自治行政は権力分立の原則に基づいており、 市議会など、官僚支配に対する反感が一定の役割を演じていた。 農民解放は、封建的、領主支配を解体した。 農民はそれまで領主に対して負っていた賦課金や賦役や義務から、解放されるはずであって、 農民は人格的な自由、農地の完全な所有権、自らの労働力を自由に用いる権利を獲得するとされた。 人道的な啓蒙主義とカントの厳格主義の意味において、 農民はもはや社会の奴隷として扱われるべきではなく、 人間としての権利と尊厳を認められるべきなのであって、 そして、そのことを通して彼らを粗野で無知な状態から脱却させるべきであると考えられた。 アダム・スミスの経済的自由主義は、農業にも多大な影響を与えた。 農地と労働力を自由に所有する者のみが生産的で、効率的であって、 賦役よりも賃労働のほうが、経済的なものだったのである。 農民を解放することだけが問題...

ニッパーダイを読みながら1

19世紀初頭の15年間、ドイツ人はナポレオンの圧倒的な影響の下におかれた。 この時代ほど、生活が外部からの圧力にさらされていた時代はめったにない。 国家を大きく変えた改革は、この圧力から決定的な影響をこうむっていた。 フランス革命は世界史における画期となったが、 ドイツ人がそれを実際に体験したのは、ナポレオンの下においてであった。 1000年続いた神聖ローマ帝国は解体された。 イギリスとロシアは同盟し、フランスを封じ込めようとした。 ナポレオンはイギリスとの経済的戦争に勝利することを求めて、 「大陸封鎖例」(ヨーロッパ大陸とイギリスの貿易を禁止すること)を出した。 もっとも密輸は防げなかったが。 ナポレオンの帝国は外国人による支配を意味しており、 諸国民の抵抗を呼び覚ました(スペインの民衆蜂起など)。 ナポレオンの帝国は、抑圧の体制だった。 しかし、フランス革命の成果である、封建的・身分制の解体は引き継がれた。 それはリベラルな行政の恵みであった。 民衆は、絶対君主制と封建体制と官僚統治によって、 消極的な姿勢を取ることに慣らされていて、 ゲリラ戦を行うほどの力を、まだ、持っていなかった。 民衆蜂起には、革命の時代に予想される、国民革命的で民主主義的な運動と、 保守的な地域主義の精神に基づく解放闘争があった。 1806年に『極度に辱められているドイツ』という文書を広めたパルムという人は、 ナポレオンの命令で処刑された。 オーストリアの抵抗は失敗に終わり、 その後、大臣のメッテルニヒは40年近くその地位に留まるが、 フランスに協力する政策をとった。 1810年、ナポレオンはオーストリア皇帝の息女と結婚した。 ナポレオンは、革命と、革命以前の古風な政治の手段を用いて、 帝国を安定させようとしたのである。 ナポレオンを支持する「親フランス党」が、オーストリアとプロイセンにも存在した。 ヘーゲルはナポレオンの崇拝者だった。 一方、ロマン主義者は、国民的、民主主義の擁護者として、 ドイツの歴史と文化を再発見しようとした。 ドイツにおけるナポレオンの支配は、近代的な国家の土台を創り出した。 その影響は1848年、1860年代までに至る、ドイツの歴史を規定することになった。 市民的な自由と法の前の平等に基づく市民的な社会という、新しい理念が、 封建的=身分制的体制から、そ...