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新約聖書より8

(十字架にかかった)イエスは大声で叫んで、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言われた。 →旧約聖書、詩編の言葉からの言葉です。イエスも死にたくなかったのかな? 『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。 …イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。 →肉体が変わっても、霊として同一人物である、というイエスの復活は、霊による肉に対しての勝利である、という主張があります。 創造者は初めから人を男と女とに造られ…人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。 →ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、男性中心主義かもしれません。 イブはアダムの肋骨から創られた話とか。婦人たちは教会では黙っていなさいとか。 イスラム教では、女性が頭や身体を覆うとか。 共産主義のマルクスは女性の解放を目指しています。 聖書の評論を終えますが、僕自身、誰かに操られて書かされているのではないかと、感じることもありました。

新約聖書より7

人の子がきたのも…多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。 →殺されるのがわかっていても逃げないイエスは、理性でなく熱情の人でした。 ヘーゲル哲学は、理性を重視しすぎると、否定する神学者もいます。 イエス・キリストは…長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、 殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。 …時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、 「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。 すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 …その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。 …イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 …ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。 弟子たちもみな同じように言った。しかし弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。 …イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、 「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。 ユダは銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。 →イエスほど魅力があっても、地上の原理ではイエスについていけないらしい。 ただしユダはイエスを裏切ったことを、文字通り、死ぬほど後悔したのですね。

新約聖書より6

「世の終りには、どんな前兆がありますか」。 …「人に惑わされないように気をつけなさい。 …多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 …また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。 それは起らねばならないが、まだ終りではない。 …民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 … しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。 … そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 …そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 …また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。 …また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 …しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。 人の子の現れるのも、そのようであろう。 →とある歴史家は、旧約聖書の創世記を読むことは、最低限のスキルだと述べています。 洪水や大地震などの災害は、神の怒りによる罰なのではないか?という主張もあります。 堕落した町で、純粋な心を持った人だけが、ヤーウェやエリ(神の名前)に救われるのです。

新約聖書より5

もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。 →砂漠でイナゴと草の根だけを食べながら、信仰を守る狂信者は、本当に奇跡を起こせるのではないか、 という主張を、ドストエフスキーは書いています。統合失調症の方の中には、超常現象を体験した人もいるのではないですか? イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、 また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 そして彼らに言われた、『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。 それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。 →不正に対しては、イエスも激しい言動を起こすのですね。 攻撃性の問題に関しては、サディズムが、キリスト教に対しての反対の立場をとっています。 浅田彰は、マルキー・ド・サド(作家、サディズムの語源)原作の、 パゾリーニ監督による映画「ソドムの市」を批評しています。 不正を正す態度と、他人の自由を奪うサディズムは別なんですね。 「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」 地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。… また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。

新約聖書より4

〇また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。 イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。 〇私より父また母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。 〇『父と母とを敬え』。 →先祖崇拝、家族の団結を説く宗教もありますが、キリスト教は違うのだろうか。 矛盾した考え方ががイエスによって主張されていますが、父母の否定が新約聖書には繰り返されています。 〇(イエスのことを否定して)見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だと言う。 →太宰治は、イエスがよっぽどの酒好きなのだろうと主張しています。イエスにも人間味があるのですね。 〇心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう… 自分を低くする者が、天国で一番偉いのである。 〇この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。 →幼子は大人と違って、知恵の実を食べておらず、純粋なのですね。 とある歴史家の意見では、「心の純粋さは金では買えない」「この世は試みの場所にすぎない」とのことです。 イエスは結婚式にワインが足りなくなった夫婦のために、水をワインに変えるという奇跡を起こしました。 ワインも買えないほど貧しい人たちと一緒にいたのだと、ドストエフスキーは説明しています。

新約聖書より3

『〇もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、 下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。 〇『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 あなたがた自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあろうか。 〇空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。 それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。 あなた方は彼らよりも、遥かに優れた者ではないか。なぜ、着物のことで思いわずらうのか。 野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 〇人を裁くな。自分が裁かれないためである。自分の目には梁があるのに、 どうして兄弟に向かって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。 〇何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。』 ➡イエスが十字架にかかるのは、引用した聖書の断片を見てもわかるように、 生存原理を徹底的に否定したからかもしれません。あまりにも偽善と妥協しなかった。 狂信的宗教者はこの教えを守るとドストエフスキーは書いています。 この世の原理と背反する点で、発狂とキリスト教に関係はあるのだろうか。 マルチン・ルター(宗教改革者、プロテスタント)は、バチカン(カトリック)の教皇の豪勢な暮らしぶりを見て、幻滅しました。 ルターは現れた悪魔にインク瓶を投げつけたこともあります。 イエズス会の一人は、ルターが誇大妄想狂の精神異常者と判断しています。 イエスも、母と兄弟姉妹に発狂したと思われ、身内の者たちに取り押さえられそうになっています。 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである。」

新約聖書より2

『「目にはめを、歯には歯を」といえることあるを汝ら聴けり。 されど…悪しき者にてむかうな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。… 下衣を取らんとする者には、上着をも取らせよ。』 『なんぢら神と富とにかねつかうること能はず。』 ↓ イエスは大金持ちの弟子に、全ての財産を、貧しい人びとに施しなさいと教えます。 地上の富ではなく、天国(神)に富を積めと。 しかしその弟子は、施すことができず、悲しんだとのことです。 『何を食べ、何を飲むか…何を着ようか…思いわずらうな。 空の鳥を見よ、種をまかず、刈らず、倉に収めず、然るになんぢらの天の父は、これを養いたまふ。』 ↓ マックス・ウェーバーは、キリスト教プロテスタントと資本主義には、相関関係があると主張しています。 カトリックは、ある程度は、その日暮らしに近いらしい。 『栄華を極めたソロモンでさえ、その服装を、花ほどにも飾らなかった。』 ↓ キリスト教は、ファッションとは、背反しています。 『イエス言葉にて霊を追い出し、病めるものをことごとくいやしたまへり。』 『彼は自ら我らの病気を受け、我らの病を負う。』 ↓ イエスは、皮膚病、熱、悪鬼につかれた者を直します。 自然科学的ではない奇跡の問題は、新約聖書の難しいところの一つでしょう。 病を自ら負う、という発想は、十字架を背負うことの中心的な考えです。 十字架を交換して、互いの苦しみを分かちあう、という小説(罪と罰)もありますね。

新約聖書より

「バステスマのヨハネは…駱駝の毛織衣をまとひ、腰に皮の帯をしめ、蝗と野蜜とを食とせり。」 「イエスは…悪魔に試みられる。「なんぢ若し神の子ならば、命じてこれ等の石をパンと為らしめよ」 答えて言い給ふ。『人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づるすべての言による。』 ↓ ドストエフスキーはパンからの自由を問題にしています。大半の民衆はパンを求めて悪魔についていきます。 キリスト教は少数の者しか救いません。 『狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その道は広く、これより入る者おおし。』 「『悪魔についていくなら…イエスに…もろもろの国と、その栄華を与えよう、と』 イエスは言います。『サタンよ、退け。主なる汝の神を拝し、ただこれにのみつかえ奉るべし。』」 ↓ イエスの天国はこの世のものではありません。地上の権力をつかまないことが大切であると。 「イエスは言います。『色情を懐いて女を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり。』」 ↓ ヨハネの黙示録では、ハルマゲドンについて、女を知らない人たちがバビロニア (性風俗の乱れた、貧富の差の大きい、大都市) との戦いを起こすと書かれています。 「もし右の目なんぢをつまづかせば、えぐり出してすてよ、五体の一つ亡びて、 全身ゲヘナに投げ入られぬを益なり。もし右の手なんぢをつまづかせば、切りすてよ、 五体の一つ亡びて全身ゲヘナにいかぬは益なり。」 ↓ ゲヘナとは、永遠に続く炎の地獄のことです。そこに落ちない為の悔い改めが重要だと。

タバコはいいの?

ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つのだ(ヘーゲル)。 ミネルヴァの梟は暁に飛び立つのだ(ニーチェ)「注、この一文は間違いだと後に判明しました。」 ヘーゲルが夕暮れと言ったのは、物事を終わりから認識することが哲学だと考えているからです。 人間は自分が何かをしているときに、偶然の集まりとして、その行為を考えている。 しかし、実は神による必然性のなかに人はいて、その必然性のなかに人はいて、 その必然性を認識することが、哲学だと考えているからです。 それに対してニーチェは終わりからではなく、未知なる出来事を体験することが重要だと考えました。 そのために暁、つまりは物事の始まりが重要だと。 ニーチェはキリスト教と仏教を、同情の宗教として否定しました。 力あるものがただしいのだと。 この発想は、プラトンによる、力よりも正義が重要だという主張にたいして、 ソフィストの反論、正義よりも力が大切だという考えに影響を受けています。 力あるもの、といってもギリシア時代のソフィストとニーチェが全く同じ主張をしているわけではありません。 ニーチェは、強者は少数でしかなく、畜群、一般大衆からの乖離は避けられないと考えています。 強者は視線を水平に保ち、それから下の存在しか見ず、上には視線を上げないのです。 これはキリスト教が神を敬う、つまり見上げることを主張していることに対する反論である可能性もあります。 (強者は対等の存在が現れたら、いやいやながら自分と同じ高みにあると認めるのです。) ヒルティー(眠られぬよるのために)によると、キリスト教徒は悩み、苦しみ、病気を 受けれ入れてもいいのではないかと考えています。 なぜならイエスが無実の十字架にかかって苦しんだからです。 ニーチェは逆にデュオニソスの生命力(アポロンの知性にたいする)を肯定します。 身近なテーマだと、ニーチェはタバコの喫煙は、肺を痛めながら快楽をえるので間違っていると主張します。 自傷だからイエスにつながると。

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