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ニッパーダイを読みながら34

宗教画は、19世紀にも引き続いて重要な役割を演じている。 それはロマン主義的な流派のためである。 しかしロマン派は、素朴な宗教性というよりも、 信仰への根本的な疑念という不幸な意識を前提する、 省察を経た新しい宗教性を生じさせている。 ロマン派の特徴は、主観的、解き放たれた感情の支配である。 客観的な出来事、客観的な形姿ではなくて、 主観的な経験、魂が感じる物のほうに他ならない。 描かれるのは、例えば、イエスがどんな「気持ち」だったか、 それが表情や姿勢にどう反映しているか、である。 そして観る者は、描かれた魂の状態に、自らを一致させることが求められる。 宗教的な対象とその意味、客観性と信仰の真理に代わって、 以前にも増して、敬虔な思い、信仰する者の気分を、観る者に抱かせることが、前面に出てくる。 肖像画は、一定の社会的地位にある、その身分の威厳を表現することから、 「個人という身分」、個別的な内面に導かれ、「私的」で「自然」な存在となる。 ロマン主義は、啓蒙主義だけでなく、 古典主義が主張する客観的で確固たるもの、限定されて有限なものと対抗して、 省察と感情の双方において、主観性を解き放ったものと言うことができる。 ロマン主義者にとっては、主観性がはらむ極端で、極めて濃密で、奇抜な可能性の方が、 いずれにしても古典主義のように、魂の相対立する諸力を調整するよりも、 興味が惹かれ、重要なのである。 ロマン主義は「詩的」であり、世界の現実は「散文的」なものである。 自我と世界の不一致こそが、生についての見方と経験と感情を規定する。 人間は、よそよそしくて、疎外された世界に生きており、 この世界は、人間を締め付け、一面化して、 規範的で典型的なものや退屈な実用性に屈服させるのであり、 この世界の矛盾のために自我は引き裂かれる。

ニッパーダイを読みながら33

フランス革命以前の世界では、教会と宮殿が中心的な建築だった。 このような位階制的な秩序は解体されていく。 宮殿は、君主制の役割の変化に対応して、 自然で親密で個人的なもの、住みやすいものへと変化して、 権力の顕示という性格を失った。 一層、重要なのは、教会と宮殿だけではなくて、 劇場や博物館、美術館、コンサートホールなどが、建築の対象となっていくことである。 これらの建物は、芸術理念を表現している。 同様に、教育のための建物、大学やアカデミー、ギムナジウム、学校が加わる。 行政官庁、議会、市議庁舎が法律の重要性に対応して、建てられた。 郵便局や、都市の市庁舎、証券取引所も建てられた。 これら全ての建物は、公共的な威信への要求を目に見える形で示している。 単なる実際的な機能を超えて、畏敬の念を持って見られたいという望みと狙いを持っているのである。 戦勝門や解放記念堂や国民的記念碑が建てられ、 目に見えない理念を、疑似的聖地という目に見えるものにする。 新たな建築の対象となるものとして、公共の庭園、公園がある。 そして造園主はまだ君主や貴族だったとしても、庭園は市民のものとなる。 古典的な理想、とりわけギリシャ人の様式に立ち戻ろうとする動きが見られる。 建築史上の古典主義である。 簡素で、明晰で、厳密であること、 立法的で、水平的で、垂直体のコントラストの釣り合いが、この様式を特徴づけている。 この様式は元々は、封建的世界のバロック様式とロココ様式に背を向けたものであり、 市民的で一時は革命的な傾向も帯びていた。 ドイツ古来の様式、そしてその中でもロマン主義以来、大いに賛美されるようになった、 ゴシック様式が存在感を強めていく。 美は一つの歴史的な表現形式、ギリシャ人のそれにのみ限定されるものなのだろうか? そうではなくて、歴史主義的であると同時に、反歴史主義的な見方だが、 素材や技術、気候的な条件が異なり、変化するのであるから、様式は所と時に結びついており、 それゆえ現在はギリシャ的な様式とは違う、独自な様式を必要としているのではないだろうか、 と問いかけられる。 ミュンヘンの古典主義は、ルネサンス様式、ロマネスク様式、初期キリスト教や、 ビザンツの形式を総合している。 様々な様式と向き合い、自分が建築したいと思う様式を造ることができるという、 かつてなか...

ニッパーダイを読みながら32

芸術が市民層の物になって以来、音楽会は制度となって、 一回限りとか、何かの機会とか、演劇が休演中の時とかいうだけではなくて、 定期的に、「予約」や「会員購入」を土台として、開催されるようになる。 卓越した技術を持つ名手の音楽会が重要性を増していく。 偉大なソリストが、音楽生活の新たな現象となるのである。 パガニーニやリストは、何人かの俳優と並んで第一級のスターであり、 一般の人たちの崇拝の的になる。 音楽への熱狂、天才崇拝、そして精神状態の不安定さが高まったのを、 埋め合わせるように、これらの独特の形が、そのような賛美を結び付けている。 鉄道の時代に入ったことが、この現象を一般に広めることになった。 この種の音楽会の開催者であるエージェントが、一定の役割を演じ始める。 さらには音楽が、金儲けや市場と結合するような現象も生じ、 例えばワーグナーはそれを激しく非難する。 イタリアやフランスのオペラは、古代的=神話的なテーマを扱ったが、 市民は、歴史的で市民的なテーマ、ロマン主義的=国民的なテーマを好むようになった。 「魔笛」「フィデリオ」「魔弾の射手」以来のドイツ・オペラの勝利の行進が始まるのである。 合唱協会は、その歌う精神を通して、政治的な色彩を帯び、 自由主義的で国民的な運動の一部分となった。 1848年以来のメッテルニヒのオーストリアでは弾圧されるのである。 労働者運動は、この政治的=音楽的な文化を受け入れた。 ドイツの人々は、「感情」や「内面」が音楽の中で表現されるのを、 好んで見出したがるようになっていった。 ワーグナーの作品が近代的な文化の中で、中心的な位置を占めるようになっていった。 ドイツが、ベートーヴェンからブラームスとワーグナーを通しての、世紀の大いなる音楽史において、 指導的な国となったことは、確かなことである。 「市民化」の他の類似した形態を、私たちは造形美術に見ることができる。 地方自治体は、宮廷や城などの公共の空間をフレスコ画で飾り、 芸術を、公共のために、市民たちの教育と自己表現のために利用しようとした。 芸術作品は公開されて、近づける物となる。 君主の画廊は、立ち入り可能な公共の場、やがて一般に公開される場となり、 そして最終的には国家の美術館となる。 美術作品は、今や一般の国民の所有物と見なされるようになり、 美術館は、国...

ニッパーダイを読みながら31

発展途上国は、すでに発展を遂げた諸国に対して、 保護関税を通して、産業体制を護るべきとされる。 それは保護関税か自由貿易かという問題において重要な役割を果たす。 一つの考え方として、経済的な制度は、 そのつど一定の状況と関係しているのであり、 抽象化して演繹的に、解剖できるような「自然的」な事実なのではなくて、 歴史的・社会的・政治的・国民的な諸条件の文脈のなかにある文化的事実なのであり、 帰納的に、そして個別化することによってのみ把握できる、と考えられている。 民主主義的革命と産業革命という二重の革命とともに 静止的だった身分制社会が解体されて、ダイナミックな市民的社会が登場し、 変化と運動のプロセスへと変わっていく。 伝統と宗教の社会的規範は拘束力を失っていく。 マルクスの考え方によると、決定的なのは、法の平等ではなくて、 生産手段の所有者がスタート時から優位に立っていることであり、 そしてこの優位は発展の中でいっそう強まっていく。 マルクスの社会学的な分析は、社会的な諸条件の全体、 全体としての社会を目標とし、個々の領域や事態を孤立させて扱うことに反対する。 この社会学は、哲学の遺産、すなわち全体を把握する権限を引き継ぐのである。 人間は本来は、普遍性と全体性への素質を持っており、そう定められているはずだという、 独特なロマン主義的=終末論的な理念である。 愛情も芸術も自然な欲求も「金銭関係」「商品」となる世界で動いている。 ある物の「価値」、正確に言えば交換価値は、 その物に投入された平均的な労働時間に対応する(労働価値説)。 「賃金」は、労働力という商品の価値、 すなわち労働者の生活に必要な物品の価値に対応する。 しかし、市場で得られる生産物の価値は、投入された労働の価値よりも遥かに高く、 そこから有名な「剰余価値」が生じて、そしてそれは企業家のものとなる。 これが搾取の経済的な核心である。

ニッパーダイを読みながら30

ロマン主義的な医学、キリスト教の医学にとって、 病気とは、罪深く、欲望と情欲に燃え、 つまらない事柄への無秩序な愛情におぼれて、己を見失う魂なのであるとされる。 それに対しては、病人の自然な治癒力と、磁気療法と、 悪魔ばらいや教会の恩恵という手段が用いられるべきなのであった。 治癒と救済、贖罪は関連し合っており、 医師は神の諸力を導くべき聖職者に他ならなかった。 ロマン主義的な医学に対して、科学の進歩は人間の寿命を倍増させた。 この分野は進歩したのであり、近代的な厳密科学は勝利したのである。 厳密科学の中心に位置するのは、実験である。 それは数量として把握される。 数量化は、計測技術の登場によって、促進される。 この計測技術は、例えば紫外線のように、自然な感覚や、 望遠鏡や顕微鏡などの感覚を強化する道具によっては認識できず、 温度や化学的な作用を通して、 間接的にしか認識できない現象を、観察するのを可能にする。 近代物理学の不可視性が発展していくのである。 カトリックにとってよりも、プロテスタントにとってのほうが、 自然科学は魅力があった。 自然科学は、古典的=観念論的な哲学に対して、反抗する中で発展し、 そして哲学を玉座から追放した。 哲学的な総合ではなくて、専門化と分析、それこそが新しい研究の原動力であった。

ニッパーダイを読みながら29

神学部、法学部、医学部は、実践的な職業のための学部である。 哲学的=人文主義的な教育は、限られた程度にしか実践ではなかった。 せいぜいヘーゲルの時代には、哲学が力を持った。 階級・地位・収入の違いより、職業の違いの方が重要な場合もあった。 すなわち一方には教養層と官吏層、 他方には経済と商業と手工業という、二つの文化が存在していたのである。 教養市民層と経済市民層と分離である。 大学で学んだという資格が、試験、資格に関する制度が、貴族を服従させた。 試験に強いことが、職業での成功や人生経験よりも優先された。 ドイツ人の古い身分制に代わり、新しい階級的な区別が強化されたのである。 政党や世論は、大学の教授たちによる強い影響を受けていた。 小ドイツ主義を強める上で、プロイセンの大学が果たした役割と魅力は大きかった。 大学の国家、教育と学問の国家である。 したがって、精神と自由の国家であるプロイセンでは、 反動的な時期をも、自由主義的に切り抜けることができたのであった。 孤独と自由、自己目的としての学問、それは大学を修道院に近い存在にした。 大学の理念は産業化以前のものであり、官僚と学者のものであった。 実践の世界、技術と経済の世界は、大学の世界とは分離されていた。 大学は社会的な状況を尊重することができず、 理論的な思弁へと人々を誘惑する。 宗教が危機を迎える中で、大学はますます重要性を増した。 新人文主義から締め出された技術的な分野は、 工業単科大学として重要な役割を果たした。 これらの大学は、数学と自然科学を学ぶ場だった。 技術を代表する人たちは、生活水準と生産性の向上によって、 初めて、文化と学問、人間性と個性が可能になるのだと主張した。

ニッパーダイを読みながら28

ギムナジウムが教養のある少数派と都市中間層の一部のための学校だったとすれば、 大多数の人たちのための学校が民衆学校だった。 子供たちの労働力を、経済の自由から見る考え方に対して、 就学義務の遵守は強制されていった。 民衆学校は教会と結びついており、 教師の職はしばしば下級の教会職との兼任だった。 中心的な授業科目は宗教だった。 一方で新人文主義の影響も受けており、理性が指向されていた。 重要な点は、新しい教師たちは学校で学び、 国家の試験を受けた教師たちが、学校にやってきたことだった。 保守派は近代的な学校を批判し、平等と革命を恐れた。 保守派は、師範学校を批判し、学問ではなく、 職人的で敬虔な水準に再び戻るべきだと主張した。 逆に、自由主義者たちは、知的な教育を信じた。 しかし自由主義者は、教育が、共産主義に対する免疫力を与えることを望んだ。 プロテスタントの中では、正統派よりも、啓蒙主義やリベラル派のほうが、 教育に肯定的だった。 社会民主主義の台頭に対しては、ドイツの民衆学校も、 生徒たちに免疫を与えることはできなかった。

ニッパーダイを読みながら27

「古い」世界では、教育は主として家庭と身分が行うものだった。 そこでは、個人は抽象ではなく、感覚を用いる実例に即して教え込まれた。 「新しい」人間は、省察と抽象に基づいて行動しようとする。 そのためには知識が必要である。すなわち学校が必要とされるのである。 自律性を発揮し、自ら考えようとする姿勢を身に付け、 伝統や権威や所与のものを批判し、理性的に判断する知性を備えるように教育するのは、 保守主義者たちからは危険で非現実的と見なされた。 そして教育は制限されるべきだと主張された。 保守主義者たちは、近代的な学校が革命をもたらすのではないかと不安だったのである。 政治が学校に作用を及ぼしたのであった。 ギムナジウム(ヨーロッパの中等教育機関)は、 宗派的・身分的な違いや、部分的特殊性に対立した。 一般的で普遍主義的な思考慣習を設定したのである。 ギムナジウムは国家全体にわたる市民層を教育し、「国民」を形作った。 ギムナジウムは近代的である。 ギムナジウムは新人文主義の学校であり、 古典語、古典の教材、形式的教育が優位を占めていた。 特にラテン語に集中する場合もあった。 ギムナジウムは、古典時代を指針とし、理想的なギリシャ人と同一視し、 文学的=哲学的な傾向が強かった。 ギリシャ人を理想視するのは、共和主義と異教に通じると、保守主義者から疑われていた。 そのため宗教の授業が重視され、共和主義的な傾向を抑制する流れもあった。 教養と専門知識は異なる。 ギムナジウムは哲学から、歴史的で実証的な個別的学問へと発展を遂げていった。 「人間を形成する」のではなく、文法の専門家を養成するようになったのである。 人文普遍主義と共和主義は色褪せていったのである。 古代は、現代から目をそらせる媒体へと変化することも可能だった。 そして、ギムナジウムの根底にあった、業績エリートという、 反身分的=反貴族的な理念は、貴族と保守主義者たちがギムナジウムを受け入れて以来、 革命的な性格を失ってしまった。 ギムナジウムは、学識者を養成する学校としては、すぐれた学校であり、 ドイツの学問は、この学校を土台として並外れた発展を遂げた。 ギムナジウムは、1848年の自由主義的な市民たちと、 1860年代の自由主義的ナショナリストたちを育てた学校であり、 新しいエリートたちの学校だった。

ニッパーダイを読みながら26

義務と感情の葛藤という、生の本来の対立を解決するのは、 大衆の場合は宗教なのかもしれない。 しかし本当は芸術なのであり、そして芸術は道徳的なものをもはや、 敬虔な心によってではなく、美的なものとして把握する。 国民的な民主主義も社会的な民主主義も、政治的信仰に属しており、 文化宗教とならんで、政治宗教が登場するのである。 古典主義は異教的であったが、 それに対してロマン主義はキリスト教への転換をもたらした。 詩的なものが宗教的となり、宗教的なものが詩的になるのである。 芸術、感情が、宗教的な愛となるのである。 キリスト教に対して、フォイエルバッハの出発点は、 物質的なもの、感覚的なもの、非精神的なものである。 マルクスにとって「私人」の運命と幸福を気遣うのは、利己主義に他ならない。 マルクスにとって、不平等な才能と、不平等な運命のような問題は、消滅させられる。 教会はプロレタリアの生活状況に無関心な態度を取っていた。 ダーウィンは、キリスト教と一般的な意識との関係を、革命的に変化させた。 彼は、創造の物語、創造主、不死といった概念を不要なものとした。 世界における、人間の特別な地位というキリスト教の教説は、脇に押しのけられた。 市民にとって、生の意味と道徳性は、家族と労働のふたつが内容となった。 労働は人類の進歩に奉仕するものであり、 個人の努力や個人が生計を得る以上のものとされる。

ニッパーダイを読みながら25

プロテスタントは保守主義派と自由主義派に分かれ、近代性と対決した。 1800年頃の神学は、 啓蒙主義と正統主義と敬虔主義という3つの動きによって規定されている。 キリスト教的な啓蒙主義は、ルター的であり、理性と個人の良心によって、 確信されるものでなけえればならなかった。 正統派は、啓示は理性を超越するものであるという立場を取った。 正統派は、カント的な合理主義的な論拠を用いて、 啓示の超自然的な成果を再び確立しようと努める。 (カントによれば、物自体を理解することはできない。) 敬虔主義は、敬虔な心に内面的な感情、罪と回心(神の道へ心を向けること)の体験、 職業と慈善の分野での敬虔な行いに基づいていた。 理性は悪魔の道具であり、奇跡を信じない(イエスは仮死状態だったと考える)という理性を否定する考え方がある。 敬虔主義が挙げた大きな成果の一つが、 キリスト教を実践する「事業」が設立されたことである。 聖書=伝道協会、貧民教育施設、看護施設、監獄協会、孤児院や病院、精神病者看護施設などである。 これらの活動は上から、すなわち教会からではなくて、 自由な協会、すなわち市民的な形態をとって展開された。 このような活動はプロテスタント全体に共通する「超党派」的な事業となっていた。 しかし、その出発点は敬虔主義である。 リベラルなプロテスタントは、理性の問題を神学に受け入れる。 聖書さえも、近代的な真理に照らして検討し、 そのようにしてのみ、良心に基づいた自由な信仰が成り立つのである。 啓蒙主義は、理性と道徳を重視し、非理性的なものを削除して、道徳に還元するが、 リベラル、観念論的哲学とは、理性と道徳以上のものであり、存在の全体を変えることである。 リベラルな神学は完成した教説ではなく、歴史主義である。 宗教とは無限なるものに「ひたすら帰依」する感情のことである。 この感情を、父と子(神とイエス)の関係として解釈する。 この解釈は、理性と結びついた学問としての神学に基づく。 敬虔な感情を、学問的に、哲学的に、検討するのである。 1848年の革命は、自由主義的な改革の失敗と、 国家主義的=保守主義的な教会施策の強化で終わった。 ルター派は、いかなる教会体制の改革も拒否し、古めかしい教会の形式や規定が再び確立され、 改革派(カルヴァン派)と厳密に区別され、自由主...

ニッパーダイを読みながら24

フランス革命以降の25年間に、当初は熱狂的にドイツで歓迎された、 人類の解放に向かっての革命は、宗教に反対したのだが、 結局は、理性の名において、ジャコバン派の恐怖支配、軍事独裁と、 ナポレオンの世界征服へ、際限のない戦争へとつながっていった。 すなわち、宗教を超えた自由と理性の名の下での約束は、崩壊したのである。 宗教が再び、当時の人々の基本的な感情の一部分となる。 宗教とは、ひたすら依存する感情のことだと定義する時、 それは完全にロマン主義的である。 啓蒙主義は個人を中心に置き、カトリックは大衆の敬虔さを前面に押し出す。 反ローマ的、反教皇的で、啓蒙主義的で、プロテスタント的な団体も結成された。 自由主義者や急進主義者は、この反ローマ運動に大きな期待をかけていた。 この運動は、反動の牙城である、ローマ教皇を弱体化させた。 宗教と国民を、一つの国民教会の下で和解させ、 宗教と民主主義を和解させるだろうと期待されたのである。 1848年に、教皇は時代の誤った考えを非難し、「誤謬表」としてまとめて示した。 宗教・意見・学問の自由、民事婚、国家教会制、国家の学校、 自由主義とフリーメーソン、人民主権と民主主義、 普通選挙権と国民の至上性、社会主義と資本主義などがそれである。 教皇が近代性と和解するすることはあり得ないとされた。 明確に非キリスト教的な立場に立つ社会民主主義が、 主としてプロテスタントとして生まれた労働者たちによって、 組織されたことは、特徴的なことである。 国家とローマ教会は、邦の領域とそれを超えている司教区の区分をめぐって対立した。 カトリックは、教皇至上主義(イエズス会的)と、反教皇至上主義に分かれた。 オーストリアは、中央集権的であり、自由主義と対抗し、 諸地方や諸民族の「連邦主義」やナショナリズムに対抗するために、 教皇至上主義派の教会を利用しようとする。 非ドイツ系の諸地域のカトリック聖職者やカトリック貴族は、 中央集権に反対し、それぞれの民族の特殊利害を支持していた。 小ドイツ主義的(プロイセン中心)な傾向を持つ、 自由主義的ナショナリストたちは、反カトリックだった。