投稿

7月, 2026の投稿を表示しています

ニッパーダイを読みながら42

経済ブルジョアジーは自由主義を支持した。 自由主義的左派は、民主主義的である。 歴史は、啓蒙主義や観念論哲学による、規範的な根拠づけを破壊し、 目標を新たに歴史的な条件のなかに定着させた。 この歴史学は、単なる実証主義ではなく、 コミット(積極的にかかわる、責任を持つ、約束すること)する歴史学であり、 自由主義的で国民的な目標なのである。 自由主義的な歴史主義は、社会主義的な歴史主義とは異なり、 革命的ではなくて、改革的である。 現実主義的な転換とは、経済に目を向ける動機も属している。 1848年を継承する市民的な自由主義と、民主主義は、一つにまとまった。 しかし民主主義に対する警戒は残り続けた。 自由主義はプロテスタント的であり、反カトリックだった。 産業化が進展するにつれて、市場と競争を指針とする、 自由主義的な経済政策の諸原則「営業の自由と流通の自由、とりわけ自由貿易主義」が勝利を収めた。 二重の路線が存在していた。 一方では、市場の解放を主張する路線が、 他方では、経済の国家への組み入れを主張する路線が、存在していたのである。

ニッパーダイを読みながら41

君主主義と貴族支配は、市民階層の少なくとも一部分を取り込むことで、 国家を強化して、革命によって揺さぶられるのを防ごうとした。 ビスマルクの目から見ても、自由主義派とのある種の和解が、 プロイセンの覇権にとって、重要であると思われたのである。 下院の選挙では、保守派の議席は激減し、民主主義派は選挙をボイコットし、 「アルトリベラル」(穏健自由主義派)が過半数を制した。 反動期の法律は緩められ、 司法・地方自治行政・出版・結社といった、古くからの自由主義的な改革と、 学校改革や営業制度、経済制度の自由主義的な改革のような新しい改革構想とが、 要するに、市民的な自由と、市民的な平等と、自由主義的な市場経済が推進される。 ポピュリズムとは、民主主義のことである。 1850年代と1860年代のドイツは、好況の時期であり、 社会革命の危険性は減少していた。 それまでの中程度の市民層の中から、企業家、経済ブルジョアジーが、 くっきりとした輪郭を持って抜け出すようになる。 保守主義の社会的な基盤を成す大規模農家が、足場を固めて強化される。 農業の近代化に伴う経済的な成功が、まさにユンカー階級に有利に働いた。 観念論哲学が終わりを迎え、自然科学、歴史的な学問が支配的な地位を占めるようになった。 ロマン主義的=理想主義的な起源から離れて、 経済・事実性・実験の原則を掲げる実証主義が台頭する。 プロテスタントの教養層の間では、教会的な宗教性が弱まり、 不可知論と俗流唯物主義が進出した。 芸術においては「現実」、写実主義への転換が生じる。

ニッパーダイを読みながら40

1859年のイタリア戦争では、国民国家イタリアの建設は、 北イタリアにおけるオーストリアの地位の壊滅を意味している。 ナポレオン3世はイタリアの統合を望み、 彼が外政的にも、軍事的にもそれを可能にした。 彼が考えていたのは、フランスが間接的な保護国となる下での、 イタリア連邦を成立させることだった。 オーストリアのヨーロッパ的大国としての地位は、 1815年以来、イタリアで占める地位に依拠している。 マルクスとエンゲルスにとって、ナポレオン3世は、 反革命を代表する人物であり、彼を打倒するのは、 労働者階級の利益にかない、それと同時にロシアに一撃を加えることをも意味する。

ニッパーダイを読みながら39

国民議会は基本権から始めた。 基本権は、市民的な社会と法治国家を創出し、保障するはずだった。 すなわち、個人の自由権と財産権、法の平等を実現し、 封建制度と警察国家に終止符を打ち、 市民と公衆の政治的な権利を保障するなどの内容を持つ。 社会的な諸権利は含まれておらず、 この憲法は、社会国家的な改革を目指す途上に位置するものではなかった。 そのような改革は、自由主義者たちの目には、自由を阻害するものと映っただろう。 左派の議員たちは、普通・平等・秘密選挙権を支持していた。 自由主義派の戦略の革新的な要素となっていたのは、 旧権力との合意という考え方である。 革命は、最終的に失敗し、終わりを迎えた。 しかし市民たちの台頭は、阻止されたのではなくて、ブレーキをかけられただけであり、 10年後に再開される。 1850年代は、「反動」の政治だった。 それは、保守的=官僚的な官憲国家・秩序国家を再び定着させ、 あらゆる自由主義や革命の傾向から護ろうとする試みだった。 しかし反動も、革命以前に戻るのは不可能だった。 反動は、1815年以降の復古よりも近代的だったのである。 「革命との決別を自らの責任で成し遂げ、革命を真剣に清算する」(ビスマルク)。 大多数の邦は、1848年に憲法に加えられた変更を取り消した。 すべての邦で、立法や行政を通して、 権威が、警察、政府、官僚が強化された。 「公共の安全」を護るという基準が、 暴動、集会、結社、出版の自由に対して適応された。 学校も厳しい監視下に置かれた。 とは言え、大多数のドイツ諸邦は、憲法を持つ国家に留まり、 確かに後戻りはさせられたものの、立憲主義的な制度を保っていた。 この点が、反動期が十年後に終わりを迎えるに至る、重要な原因の一つとなるのである。 ましてや、革命の社会的な成果である農民解放は、撤回されなかった。 反動派は、教会内の反革命勢力と提携した。 1849年5月30日の、プロイセンでの三級選挙権は、 普通選挙権ではあるが、不平等選挙権である。 この選挙権は、有権者を身分的な観点に基づいてではなくて、 納税額というブルジョア的な原則に基づいて区分したので、 古風な意味で保守的なものではなかった。 しかし、それは新たな非市民的な特権秩序を創出するものだった。 資本主義的な市民階層は、株式会社の設定が容...

ニッパーダイを読みながら38

ハンガリーはオーストリアに対して、独自の議会主義的と自治を獲得した。 ハンガリーは、マジャール・ナショナリズムによって、 マジャール語を、隣接する諸地方に押しつけようとした。 これに対して、クロアチア人、セルビア人、ルーマニア人の抵抗が沸き起こった。 オーストリアに対するハンガリーの拒絶と、 マジャール・ナショナリズムに対する諸民族の拒絶とが、交差し合っていたのである。 左派は親ハンガリーである。 彼らは、ナショナリスト同士の国際的な連帯を信じていた。 急進的な赤いウィーンに対する反発は強まっていた。 マルクスは、夏の終わりにウィーンにいた。 ウィーンにおいてドイツの運命は決せられるのである。 ウィーンでは、急進主義的なウィーン革命が起こった。 それは国民的というより、国際的であり、 自由主義的ではなくて、急進主義的なものだった。 逆にウィーンは、反革命によって「征服」された。 オーストリアでの反革命の勝利が、ドイツにおける反革命の土台となった。 革命は、互いに対立し合う民族的な目標を、 すなわち、ドイツ人が指導する一つにまとまった全体国家、 マジャール人が率いる大ハンガリーの分離、 そしてスラブ諸民族の自治という、 それぞれ異なる目標を持っていたのである。 スラブ・ナショナリズムは反動的だという、 マルクスとエンゲルスによる非難は、不当なものである。 民族的な争いこそが、反革命が勝利を収めるのを助けたのだった。 民族間の争いによって、革命はすりつぶされてしまったのである。 大ドイツ主義は、どのようなオーストリアの分離にも反対した。 オーストリアはロシアに支援を要請し、ロシア軍はハンガリー革命を粉砕した。 ロシアはオーストリアの救済者となり、反革命の砦となったのである。

ニッパーダイを読みながら37

市民的な運動は、自由主義派と民主主義派に分裂し、 左派は、穏健派と極端派に分裂した。 反革命からの抵抗が激しさを増していった。 ドイツでは、古い権威が解体され、公共的な政治生活が出現した。 その結果、議会の外に、そして政治党派のかたわらに、多数の運動や組織が登場して、 様々な利害や要望や立場を表現した。 民衆学校教師、ギムナジウム教師、大学教授、大学生、医師、 大土地所有者、手工業者、労働者、自由貿易主義者、保護関税主義者、 カトリック、プロテスタント、その他、多くの集団が「運動」を形成した。 彼らは自分たちの要望を、国民議会にあてて訴えた。 カトリックは、国家からの自由を求め、急進主義者たちは教会の権力を打破しようとした。 カトリックは勝利して、イエズス会も禁止されなかった。 カトリックは左派と対抗する。 自由主義者たちは、競争と産業を支持した。 そのため市民層の一部は、自由主義者から遠ざかった。 自由主義者たちは、権威主義的な官僚支配に反対し、 地方自治体の市民たちは、近代化を推進する官僚支配に反対した。 ドイツのナショナリズム、権力への野心は、右派と左派の双方によって担われていた。 当時のナショナリズムは左派的な現象であったので、 ゲルマン人とスラブ人の闘争を、左派も支持していた。 それは50年後には、右派のものとなる。 自由主義的な革命、市民中道派の革命は、勝利を収めたように見えた。 しかし自由主義者たちは、旧権力と合意した。 一方、自由主義者たちは、革命を停止させたいと望んでいながら、 革命と完全に縁を切ることもできなかった。 左派と反革命の目標は、ともに自由主義的な体制をくつがえそうとしていた。 中道派の政策は、困難になる一方だった。 教会と軍隊も反革命だった。 民主主義者たちは共和主義であり、自由主義者の組織から分離した。 民主主義者は、不況によって強められた、下層民のプロテストを養分としていた。 穏健左派と急進主義者も違う。 社会主義者と非社会主義の民主主義者も対立した。 また、民主主義者は反革命に対峙した。

ニッパーダイを読みながら36

ドイツの1848年の革命は、パリの二月革命が引き金となった。 民衆の武装、市民防衛隊の設置が要求され、 君主の軍隊はもはや武器を独占するべきではないと主張される。 「出版の自由」、検閲の廃止と完全な政治役公論の解放が要求されるが、 それは政党結成の禁止の撤廃を意味する。 「陪審裁判」、すなわち司法の民主化が、とりわけ政治犯罪に関して要求され、 そしてドイツ国民議会の設置が要求された。 それは、もはや法律の変更を要求するものではなくて、 ドイツにおける体制と権力関係を変えることを、要求するものに他ならない。 三月一日に、代表団に大衆の示威行進が随行する。 大衆のこの動きが、今や革命の権力基盤となるのである。 すなわち邦全土からの都市市民、職人、労働者と大学生、自営農民と農夫が、 一部は鉄道で急行し、一部は武装し、 雄弁な演説や友愛の精神に鼓舞されながら、議事堂の近くで気炎を上げる。 下院は三月要求を受け入れ、三月九日に、 大公は、自由自由派の指導者から成る新政府、「三月政府」を任命する。 ミュンヘンやフランクフルトでは、武器庫や市庁舎が襲撃される。 古典的な三月要求に、選挙権の自由化や憲法改正や農民解放のような、 他の要求が付け加えられていく。 メッテルニヒは自らの大義が敗北することを受け入れ、辞任する。 ウィーン革命では、急進的な要求が、他のところよりも大きな役割を演じた。 大学生たちが、市民的な中道派よりも急進的な立場をとりつつ、 これほど自立的で指導的な役割を務めるようになったのは、ウィーンにおいてだけであり、 ウィーンでは、急進派が、他のところのように、革命の指導部から排除されなかった。 宮廷は5月19日に、急進的なウィーンから逃亡した。 皇帝国家は、ウィーンの革命だけでなく、 イタリアの蜂起、サルデーニャ=ピエモンテ王国の戦争、革命的なハンガリー、 プラハでも三月の革命が起こった。 ベルリンでは民衆集会が開かれ、社会革命的な色彩を帯びた抗議の声が上がった。 バリケードが築かれて、市街戦が展開された。 しかしながら、革命は搾取され抑圧された諸階級の革命だったのではなくて、 広い意味での市民社会が、自由を尊重し、民衆に近い国家を、 求めたところから発したものだった。 自由主義的な市民階層の指導者たちは、この問題を意識していた。 彼らは革命が急進化する...

ニッパーダイを読みながら35

ロマン主義の主観性と、公共的な物の客観性の対立は、 資本主義よりも、かなり前から登場していたのであるから、 悪しき資本主義にその原因を求めることはできない。 写実主義は、ロマン派の行き過ぎた主観性に対して反発した。 ロマン派に代わって、現実の対極としてではなくて、 事物を状況的に経験し得る現実に、現実の一部としての自我に向かうのである。 それは例外的な状況やアウトサイダー的な人物から離れ、 さらには愛や友情や運命の支配、宗教や形而上学から離れて、 「通常」の状況や出来事や人物に向かう。 「詩的」に作り上げられた主人公、芸術家、あるいは知識人から離れて、 「散文的」な世界を生きている人たち、とりわけ市民に向かうことを意味する。 ここで問題になるのは、写真のような客観性のことではない。 内面性と世界との、いつまでも続く脅威による対立、これらがテーマであり続ける。 写実主義者にとって肝心なのは、 現実を客観的に反映することと、主観的に解釈することとのバランスを取ることである。 客観化すると同時に主観化するのである。