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ニッパーダイを読みながら36

ドイツの1848年の革命は、パリの二月革命が引き金となった。 民衆の武装、市民防衛隊の設置が要求され、 君主の軍隊はもはや武器を独占するべきではないと主張される。 「出版の自由」、検閲の廃止と完全な政治役公論の解放が要求されるが、 それは政党結成の禁止の撤廃を意味する。 「陪審裁判」、すなわち司法の民主化が、とりわけ政治犯罪に関して要求され、 そしてドイツ国民議会の設置が要求された。 それは、もはや法律の変更を要求するものではなくて、 ドイツにおける体制と権力関係を変えることを、要求するものに他ならない。 三月一日に、代表団に大衆の示威行進が随行する。 大衆のこの動きが、今や革命の権力基盤となるのである。 すなわち邦全土からの都市市民、職人、労働者と大学生、自営農民と農夫が、 一部は鉄道で急行し、一部は武装し、 雄弁な演説や友愛の精神に鼓舞されながら、議事堂の近くで気炎を上げる。 下院は三月要求を受け入れ、三月九日に、 大公は、自由自由派の指導者から成る新政府、「三月政府」を任命する。 ミュンヘンやフランクフルトでは、武器庫や市庁舎が襲撃される。 古典的な三月要求に、選挙権の自由化や憲法改正や農民解放のような、 他の要求が付け加えられていく。 メッテルニヒは自らの大義が敗北することを受け入れ、辞任する。 ウィーン革命では、急進的な要求が、他のところよりも大きな役割を演じた。 大学生たちが、市民的な中道派よりも急進的な立場をとりつつ、 これほど自立的で指導的な役割を務めるようになったのは、ウィーンにおいてだけであり、 ウィーンでは、急進派が、他のところのように、革命の指導部から排除されなかった。 宮廷は5月19日に、急進的なウィーンから逃亡した。 皇帝国家は、ウィーンの革命だけでなく、 イタリアの蜂起、サルデーニャ=ピエモンテ王国の戦争、革命的なハンガリー、 プラハでも三月の革命が起こった。 ベルリンでは民衆集会が開かれ、社会革命的な色彩を帯びた抗議の声が上がった。 バリケードが築かれて、市街戦が展開された。 しかしながら、革命は搾取され抑圧された諸階級の革命だったのではなくて、 広い意味での市民社会が、自由を尊重し、民衆に近い国家を、 求めたところから発したものだった。 自由主義的な市民階層の指導者たちは、この問題を意識していた。 彼らは革命が急進化する...

ニッパーダイを読みながら35

ロマン主義の主観性と、公共的な物の客観性の対立は、 資本主義よりも、かなり前から登場していたのであるから、 悪しき資本主義にその原因を求めることはできない。 写実主義は、ロマン派の行き過ぎた主観性に対して反発した。 ロマン派に代わって、現実の対極としてではなくて、 事物を状況的に経験し得る現実に、現実の一部としての自我に向かうのである。 それは例外的な状況やアウトサイダー的な人物から離れ、 さらには愛や友情や運命の支配、宗教や形而上学から離れて、 「通常」の状況や出来事や人物に向かう。 「詩的」に作り上げられた主人公、芸術家、あるいは知識人から離れて、 「散文的」な世界を生きている人たち、とりわけ市民に向かうことを意味する。 ここで問題になるのは、写真のような客観性のことではない。 内面性と世界との、いつまでも続く脅威による対立、これらがテーマであり続ける。 写実主義者にとって肝心なのは、 現実を客観的に反映することと、主観的に解釈することとのバランスを取ることである。 客観化すると同時に主観化するのである。