ニッパーダイを読みながら48
絶対君主制の、福祉政策、例えば、経済や社会秩序、福祉保護や建築法が終わり、 自由主義は、安全保障と秩序維持という古典的な役割に、国家を限定した。 対外政策と防衛政策、法の維持、行政政策、資金を調達する財政政策に限定されたのである。 ナポレオン期には、文化政策、学校政策も加わった。 ドイツ帝国の時代には、国家と行政の任務が再び獲得された。 法治国家・司法国家・課税国家・関税国家・兵役義務・学校国家・教会との関係、 生活扶助と生活への備え、「給付行政」などが成立した。 不干渉国家が干渉国家となっていくのである。 帝国の中央秩序は拡大して、連邦諸邦の行政が従わなければならない規範の多くが、 帝国の中央機関によって定められた。 帝国官庁の形成により、連邦に代わって、帝国が政治の中心となっていった。 郡長も、彼の郡の代表者であるよりも、中央の国家の代表者としての性格を強めていった。 郡長は、帝国の敵、カトリックと自由主義左派、社会民主主義派とポーランド人に対する、 国家の「闘い」の断固たる代表者でなければならなかった。 郡長は、単純に国家に忠実であったというのではなくて、 保守派であり、地方や中央での、古プロイセン的な、 権力エスタブリッシュメントと結びついていた。貴族と近かったのである。 郡長たちを解体しなければ、リベラル(改革保守的)な政策は実現できなかった。 裁判所による行政へのコントロールの芽生えが、幅広く見られた。 自由主義派は、農村において、大農場主が持っていた、 地域の警察権をなくして、封建的な秩序を克服することを目指していた。 しかし農民解放と農業革命が、大農場所有者に有利に働いたため、 自由主義派による、田園地帯の脱封建化は失敗に終わった。 農場領主の警察権は廃止された。 しかし多くの小さな自治体では、事実上、大農場の一人が、管区長に任命されたので、 確かに法的基盤は変わったが、 具体的には多くのものが、旧状のままという状態だった。 ユダヤ人やポーランド人は、行政で任用されるチャンスは殆どなかった。 司法の分野では、ユダヤ教徒の割合は、人口比率と比べると高かった。 この分野では、カトリックは冷遇されていた。 1910年の時点で、県知事と州知事の中の、 貴族と市民層出身者の比率は、34人対14人であった。 貴族と市民層とが統合した新しい官僚エリートも...