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ニッパーダイを読みながら52

軍は、政府及び議会と並ぶ、第三の権力要素である。 自由主義派の人たちは、プロイセンの軍事エリートたちの抵抗を押し切って、 体制を自由主義化することができず、軍事政策を議会主義化することができなかった。 軍の権力が、戦争と革命に備えるものであるのは明らかだった。 ビスマルクのような文官の政治と、軍の独自政策は異なる。 政治指導部と軍事指導部の間の問題は、増大していったのである。 近代的で市民的=国民的な民間の軍事は、伝統的で保守的な軍とは異なる。 軍事的な効率と軍備拡張という必要性が、民主的な作用を及ぼした。 増大していく軍備の費用が、議会の影響力を強めたのである。 将校職は、貴族の領分だった。 しかし、貴族の占める割合は低下していった。 海軍将校たちは、男らしく、騎士らしく、戦士らしく振舞って、 名誉を重んじるという、市民以前的な理念を信奉し、 国家と国民よりも、皇帝を指針とした。 職業であるよりも、身分であり続けたのである。 将校たちは、皇帝の臣下として、騎士団の一員として服従しており、 義務と奉仕、服従と忠誠という、特別な忠誠心を抱いていた。 憲法ではなくて、君主に対して、宣誓することがその一つの特徴だった。 将校たちにとって、利潤を重視する資本主義的な世界は、軽蔑の対象となった。 将校たちにとって「名誉」という概念は独特なものであり、 この名誉を守るための、決闘という古風な慣習が重視されていた。 軍は社会民主派を警戒していた。 公的な愛国主義においては、学校での歴史の授業や、 愛国的な祝祭や、歌や詩、記念碑の建立や、死者の追悼や、 英雄と戦争、戦闘と勝利の思い出が、そしてパレードが、 傑出した役割を演じていた。 軍隊こそが国民的な秩序の担い手だったのである。 新たな帝国ナショナリズムは、軍事的な要素を著しく強調した。 大英帝国における帝国主義的な支配スタイルは、完全に軍事的であり、 アメリカでは資本主義的なボスの権威は、ドイツの場合よりも遥かに強大だった。 平和主義は極めて稀で、断固として戦争反対の声を上げるのは、 社会民主主義者と、少数の市民左派だけに限られていた。

ニッパーダイを読みながら51

1840年代から議論されるようになった刑務所改革は、 社会復帰を目指し、釈放後の生活を可能なようにすること、 労働を教育の手段とすることを目指していた。 社会的に劣悪な状態におかれた少数民族の犯罪率は高い。 学校教育は、犯罪を阻止する1つの要素となっていた。 犯罪が依然として社会的なプロテストの戦線と結び付くこともある。 1872年の裁判所構成法は、官僚と自由主義の精神に基づいていた。 この法律は、司法を国家の物とすることを定めて、 封建的・身分制的な司法権を撤廃した。 裁判官は、一方的に罷免されてしまわないことが保障された。 司法の独立性が、制度的に保障されたのである。 一般人が判決に参加できるかどうか、陪審裁判を取り入れるかどうかの問題がある。 裁判費用が、地域によって違うという問題もある。 ストライキや団結権などの、労働に関する問題では、 階級的な裁判官が否定することもある。 営業の自由、土地法や相続権は、 資本主義的な市場経済の精神に合致するように改められた。 個人を、過剰な国家による拘束から護ろうとする自由主義的な傾向があった。 資本に対して、農業政策の立場から提起された異議もあった。 国家ナショナリズムと民族ナショナリズムは違う。 労働法(団結権とストライキ権)が定められた。

ニッパーダイを読みながら50

選挙は依然として間接選挙で、公開投票の下で、 しかも平日の労働時間中に行われた。 それは選挙の自由と、選挙への参加を制限することとなった。 都市は自由主義派の力が強い。 全体的な政治の面では、自由主義派の旗色は悪かった。 市長たちは、法学の教育を受ける、専門職となっていった。 素人による行政は不可能となった。 都市の活動は拡大した。 道路の舗装、清掃、照明、病院、救貧院、学校、 水道、下水道、ごみの処理、畜殺場、食料品の検査、 港や倉庫、貯蓄金庫や展示場、墓地や公園、遊園地、 ガスの製造と発電、近距離交通事業などである。 大都市では、発電所の80パーセントが地方自治体経営だった。 これは「地方自治体社会主義」と呼ばれた。 都市の保険制度、それは病院や救貧扶助、保健所や福祉保護、 住宅査察、職業紹介、失業保険などである。 都市の文化政策としては、 劇場、博物館、美術館、図書館などがある。 都市経済は、産業とサービスを特徴的な部門とする。 鉄道が、交通の中心地としての機能を強める。 農村部と都市の間の格差は拡大する。 都市こそが、いくらか労働が減少した世界において、 娯楽が提供される近代的な場となるのである。 小さな上層と、小さな中間層と、極めて幅広い下層とが、都市を特徴づける。 階級間の境界が、都市ではより鮮明になる。 都市は、隣人間の結び付けを弛緩させ、 より個人的な、より争いが多くて、より匿名的なものにした。 ノスタルジー的、ユートビア的な、農村好みによる、都市批判が起こった。 都市は近代的である。 農業ロマン主義は、周縁役な現象に過ぎなかったのである。 農業関税は、国家の収入となったばかりではなく、 農家への補助金でもあり、農産物の販売価格を世界市場の水準を超えるレベルで安定させ、 それゆえ消費者の犠牲において、農家の収入を少なからず改善した。 直接税と間接税は違う。 所得税は、中程度以上の所得を得ている人に、大きな負担を課し、 間接税(消費税)は、収入が少ない人たちの負担となった。 税政策は、社会の強力なグループの間で、 配分をめぐる争いが展開される場となったのである。

ニッパーダイを読みながら49

「シティ」はビジネス、「旧市街」は殆どスラム、 工業地区と、郊外の新しい住宅地区が成立する。 一戸建て住宅と賃貸住宅の違いがある。 土地を売り渡して、大きな利益を得ることは、 自由主義的=市場経済的なやり方である。 このやり方は、無秩序で無計画であり、地方自治体の官僚の計画と対立した。 自由主義派=社会民主主義派である。 19世紀の末までは、自由主義的・市場経済的な土地法と建築法が効力を持っていたのであり、 それは農民解放の一つの帰結である。 都市の土地も、家父長制や共同体による監督から解放されて自由化されたのであった。 自由主義的な司法は、個人主義的な帰結に至った。 それは古い都市の近代化とは関連がある。 ニュルンベルクのような特別なケースでだけ、 文化保護が、法的に広がる以前に、歴史的な建築物を護ることができた。

ニッパーダイを読みながら48

絶対君主制の、福祉政策、例えば、経済や社会秩序、福祉保護や建築法が終わり、 自由主義は、安全保障と秩序維持という古典的な役割に、国家を限定した。 対外政策と防衛政策、法の維持、行政政策、資金を調達する財政政策に限定されたのである。 ナポレオン期には、文化政策、学校政策も加わった。 ドイツ帝国の時代には、国家と行政の任務が再び獲得された。 法治国家・司法国家・課税国家・関税国家・兵役義務・学校国家・教会との関係、 生活扶助と生活への備え、「給付行政」などが成立した。 不干渉国家が干渉国家となっていくのである。 帝国の中央秩序は拡大して、連邦諸邦の行政が従わなければならない規範の多くが、 帝国の中央機関によって定められた。 帝国官庁の形成により、連邦に代わって、帝国が政治の中心となっていった。 郡長も、彼の郡の代表者であるよりも、中央の国家の代表者としての性格を強めていった。 郡長は、帝国の敵、カトリックと自由主義左派、社会民主主義派とポーランド人に対する、 国家の「闘い」の断固たる代表者でなければならなかった。 郡長は、単純に国家に忠実であったというのではなくて、 保守派であり、地方や中央での、古プロイセン的な、 権力エスタブリッシュメントと結びついていた。貴族と近かったのである。 郡長たちを解体しなければ、リベラル(改革保守的)な政策は実現できなかった。 裁判所による行政へのコントロールの芽生えが、幅広く見られた。 自由主義派は、農村において、大農場主が持っていた、 地域の警察権をなくして、封建的な秩序を克服することを目指していた。 しかし農民解放と農業革命が、大農場所有者に有利に働いたため、 自由主義派による、田園地帯の脱封建化は失敗に終わった。 農場領主の警察権は廃止された。 しかし多くの小さな自治体では、事実上、大農場の一人が、管区長に任命されたので、 確かに法的基盤は変わったが、 具体的には多くのものが、旧状のままという状態だった。 ユダヤ人やポーランド人は、行政で任用されるチャンスは殆どなかった。 司法の分野では、ユダヤ教徒の割合は、人口比率と比べると高かった。 この分野では、カトリックは冷遇されていた。 1910年の時点で、県知事と州知事の中の、 貴族と市民層出身者の比率は、34人対14人であった。 貴族と市民層とが統合した新しい官僚エリートも...