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ニッパーダイを読みながら47

1871年のドイツ帝国憲法は、 時代の優勢な諸勢力の間の、妥協を表現したものであり、 国民国家及び、その統一性と、それを構成する諸邦及びその多様性と、 そしてプロイセンの覇権との間の妥協、 強力な君主政と、それよりは弱体な国民的な民主主義との間の妥協、 一方の貴族及び軍と、他方の市民たちとの間の妥協を表現したものだったが、 もちろんこの妥協は、ビスマルクが、近代性を保守的な形に変容させたことを特徴としていた。 憲法の本文は短くて、しかも曖昧で、絶えず解釈されることを必要としていた。 すなわち、この憲法は、幾つかの点でさらに発展させていくチャンスと、 守りを固めて、そのような発展を阻止するチャンスとの、双方を含んでいたのである。 ビスマルクは憲法の解釈に関しては、一種の独占権を主張し、 反対論に対しては、そっけなく反応する傾向があり、 それどころか、1878年の帝国議会解散と、社会主義者鎮圧法に際しては、 満場一致の賛成をまさに要求して、バーデンでの異議を握りつぶしたのであった。 しかしビスマルクは、確かに自らの意思を貫こうと努めていたけれども、 連邦に好意的な態度を示すこと、自発的な申し合わせ、 コンセンサスを得ることを、明確に重視していた。 そこには、与えて受け取ること、貫きながらも譲歩すること、 断念して譲ることが含まれていた。 連邦主義は、帝国の議会、議会主義の進出から、 君主主義原理を護る盾として組織されていた。 議会主義=民主主義と、君主主義=連邦主義との対立である。 帝国は、構成諸邦の連邦であると同時に、国民の国家でもあって、 しかし皇帝は、予想に反して、国民を統合し象徴する存在となっていった。 それは、歌や戦勝・講和記念碑や、多くの国民的な祝賀行事などによる。 自由主義左派や、カトリック、社会主義者の人たちは、 なかなかこの統合プロセスに加わらなかった。 貴族も市民も、議会での活動を経て大臣職に就くという、 議会的な特徴を持つイギリスの状況は、 プロイセン=ドイツのモデルと対照的な姿を示していた。 ドイツの統治エリートたちは、官僚的な出自を持っていたのである。 議会とは、国民の機関であり、国民民主主義的な帝国議会であった。

ニッパーダイを読みながら46

ビスマルクはナポレオン3世との戦争において、 ドイツ国民国家の建設を目指していた。 プロイセンと南ドイツの合同である。 マキャベリズムとモラル政策は異なる。 戦争による領土の併合について、マルクスは、 ビスマルクの併合政策が、将来の世界的な紛争の土台となることを見て取った。 ナポレオン3世との開戦と、最初の戦闘における勝利を受けて、 国民的な熱狂の嵐が南ドイツの諸邦で巻き起こり、 依然として強力だった、反プロイセン派や自邦中心主義派を受け身の立場に追いやり、 突如として国民が、大いなる感情に包まれて統一されたのである。 ビスマルクは、国民運動と同盟を結んでいたのだけれども、 帝国建国の具体的なプロセスの中では、この運動に口を差し挟ませなかった。 建国の発言権は、諸邦君主と諸邦政府であるべきだったのであり、 議会や国民運動や国民派、議員や民衆であるべきではなかったのである。 ビスマルクは考えた。 バイエルン王はプロイセン王に服することはできないが、皇帝に服することはできるだろうと。 ナショナリズムとは、アイデンティティの多元性への信仰に他ならない。 何が国民を構成するのか、 例えば、言語か、それとも国家への所属か、生まれか、それとも信条か、 という点を巡っては、それぞれの国民の歴史と状況に応じて見方が異なるし、 ナショナリストの間でも見解が異なるのである。

ニッパーダイを読みながら45

ビスマルクの自由主義への歩み寄りに対しては、 自由主義者の半数が賛成し、半数が反対した。 元々はユンカーであり、反動派であったビスマルクが、 本来の好みに反して、近代化を推進する改革者になったということは、注目に値する。 ビスマルクは保守の旗印の下での近代化を望んだ。 限界を設定するという留保付きでの近代化である。 それに対して、自由主義派の側は、長期的にはそのような近代化によって、 保守派の実際の権力的地位も解体されていくだろうし、 それにともなって国家の支配体制も、自由主義化されることになるだろうと期待していた。 プロイセンで通用していた、自由主義的な経済政策は、北ドイツ全体に適用された。 居住の自由、度量衡の統一、自由主義的な商法の制定、 営業の自由、ユダヤ教徒の解放などである。 手工業組合加入の強制や、競争の制限は取り払われた。

ニッパーダイを読みながら44

「現実政策」は、政治を規範的な理念に基づいて行うことはできない。 具体的に言えば、今や自由主義派にとって肝心なことは、 反対派としての立場に立ち、 現実に抗して自分たちの夢を堅持することではなくて、 事態を形作るのに協力し、統治能力を備えた状態へと向上していくことなのである。 そうなれば一つの権力となることができるだろう。 このような主張は、自由主義の屈服を意味するのではないだろうか? 法よりも権力を選択するのだと。 大ブルジョアジーや中層市民層は、 反対派としての立場を保って、自由主義的であり続けた小市民層と別れ、 古くからの既成支配層に近づいた。 ビスマルクはマキャベリズムである。 1866年に、ドイツ革命、ビスマルクの革命が起こった。 オーストリアの人々がドイツに所属しているという状態と、 ドイツが個別的な諸邦によって構成されているという状態に終止符を打って、 ビスマルクは、プロイセンの自己主張と権力の拡大を、 時代の潮流に乗ることによって達成した。 ビスマルクは国民的な運動と手を結んだ。 市民的な社会を国民国家に結びつけたのである。 1866年の敗者はオーストリアであった。 オーストリアはもはやドイツの大国ではなくなったのである。 ビスマルクの国民的な政策は「上からの」政策であり、 「下から」、民衆や大衆によって、既存の諸制度を超えたところで操作されないまま、 操作不能な状態で成し遂げられてはならなかったのである。 そのような条件の下でビスマルクは、国民運動と手を結んだのである。 ビスマルクは、大プロイセン主義から、国民ドイツ的な政策へと移行したのであった。 プロイセンの指導の下での国民的な統一に対しては、 反プロイセン主義勢力が手を結んだ。 民主派、自邦中心主義的な君主たち、保守主義者、教皇至上主義者、革命的な社会主義者などである。 国民自由主義者は、プロイセンによる国民的な統一が達成されれば、 自由を尊重する憲法秩序も実現するだろうと信じていた。 逆に民主主義者たちは、プロイセンの覇権が阻止されて初めて、 ドイツ統一への道も見出せるだろうと信じていた。 国民民主主義者は、反プロイセン主義なのである。 ドイツ問題の最終的な解決、国民国家的な統一の完成は、 誰もが逃れることのできない自然なプロセスであった。 ビスマルクは、そのような状態の下で...

ニッパーダイを読みながら43

反動期の大多数の政府は、カトリックと協力していた。 自由主義的な協同組合は、労働組合と違って、ストライキ組織ではなかった。 教養、それは自由主義者たちにとっては、資本と労働の間の基本的な調和、 共産主義の誤りを認識することを意味していた。 自由主義的な構想は、市民となることを望んでいる有能な労働者を標的としていた。 自由主義的な協会で活動していたのは、 手工業的な専門知識を持ち、賃金の良い労働者たちであった。 しかし労働者は、政治から締めだされていた。 例えばドイツ国民協会は、年会費の引き上げを通して、事実上、労働者を排除し、 1862年には、労働者も会員となれるように、会費の額を変更するべきだという、 「左派」の政治家たちの提案は拒否された。 民主主義者たちは、彼らが目指した大衆運動の一部分として、 労働者を動員しようと考えた。 しかし、民主主義者たちにしても、 労働者を共通の民衆運動に統合することを望んでいたのであって、 労働者が別個の組織を結成するのは、 共通の政治的な目標を損なうに違いないと考えて、そのような組織の結成を妨げようとした。 自由主義的=民主主義的な労働者政策は、調和を求める性格を持っていて、 労働者と企業家の間の利害関係を故意に軽視している。 賃金額の問題を基本的に無視していたのである。 マルクスの場合には、民主的な国民国家という目標は、 機能的に世界史の一段階として想定されていいた。 1868年には、労働組合が台頭した。 ストライキが頻発し、団結権の問題も採り上げられるようになる。 国民国家と民衆国家は異なり、 民主主義的な目標と、国民的な目標は異なる。 国王の考えによれば、兵士は市民生活から離れて、全身全霊を捧げる兵士となり、 規律と絶対的な服従と軍人精神を叩き込まれる必要があるのであった。 3年間の兵役期間に、反革命的な精神を叩き込むのである。 将校団は伝統的に、貴族によって占められていた。 しかし憲政国家のなかで軍隊は、予算を確保するために、 議会に頼らねばならず、市民的な議員と選挙民の支持に頼らねばならなかった。