ニッパーダイを読みながら39

国民議会は基本権から始めた。
基本権は、市民的な社会と法治国家を創出し、保障するはずだった。
すなわち、個人の自由権と財産権、法の平等を実現し、
封建制度と警察国家に終止符を打ち、
市民と公衆の政治的な権利を保障するなどの内容を持つ。
社会的な諸権利は含まれておらず、
この憲法は、社会国家的な改革を目指す途上に位置するものではなかった。
そのような改革は、自由主義者たちの目には、自由を阻害するものと映っただろう。

左派の議員たちは、普通・平等・秘密選挙権を支持していた。

自由主義派の戦略の革新的な要素となっていたのは、
旧権力との合意という考え方である。

革命は、最終的に失敗し、終わりを迎えた。

しかし市民たちの台頭は、阻止されたのではなくて、ブレーキをかけられただけであり、
10年後に再開される。

1850年代は、「反動」の政治だった。
それは、保守的=官僚的な官憲国家・秩序国家を再び定着させ、
あらゆる自由主義や革命の傾向から護ろうとする試みだった。
しかし反動も、革命以前に戻るのは不可能だった。
反動は、1815年以降の復古よりも近代的だったのである。

「革命との決別を自らの責任で成し遂げ、革命を真剣に清算する」(ビスマルク)。

大多数の邦は、1848年に憲法に加えられた変更を取り消した。
すべての邦で、立法や行政を通して、
権威が、警察、政府、官僚が強化された。

「公共の安全」を護るという基準が、
暴動、集会、結社、出版の自由に対して適応された。
学校も厳しい監視下に置かれた。

とは言え、大多数のドイツ諸邦は、憲法を持つ国家に留まり、
確かに後戻りはさせられたものの、立憲主義的な制度を保っていた。
この点が、反動期が十年後に終わりを迎えるに至る、重要な原因の一つとなるのである。
ましてや、革命の社会的な成果である農民解放は、撤回されなかった。

反動派は、教会内の反革命勢力と提携した。

1849年5月30日の、プロイセンでの三級選挙権は、
普通選挙権ではあるが、不平等選挙権である。
この選挙権は、有権者を身分的な観点に基づいてではなくて、
納税額というブルジョア的な原則に基づいて区分したので、
古風な意味で保守的なものではなかった。
しかし、それは新たな非市民的な特権秩序を創出するものだった。

資本主義的な市民階層は、株式会社の設定が容易になったことや、
国家の銀行政策、さらには鉱山法の自由化を通して、利益を得た。