ニッパーダイを読みながら34
宗教画は、19世紀にも引き続いて重要な役割を演じている。
それはロマン主義的な流派のためである。
しかしロマン派は、素朴な宗教性というよりも、
信仰への根本的な疑念という不幸な意識を前提する、
省察を経た新しい宗教性を生じさせている。
ロマン派の特徴は、主観的、解き放たれた感情の支配である。
客観的な出来事、客観的な形姿ではなくて、
主観的な経験、魂が感じる物のほうに他ならない。
描かれるのは、例えば、イエスがどんな「気持ち」だったか、
それが表情や姿勢にどう反映しているか、である。
そして観る者は、描かれた魂の状態に、自らを一致させることが求められる。
宗教的な対象とその意味、客観性と信仰の真理に代わって、
以前にも増して、敬虔な思い、信仰する者の気分を、観る者に抱かせることが、前面に出てくる。
肖像画は、一定の社会的地位にある、その身分の威厳を表現することから、
「個人という身分」、個別的な内面に導かれ、「私的」で「自然」な存在となる。
ロマン主義は、啓蒙主義だけでなく、
古典主義が主張する客観的で確固たるもの、限定されて有限なものと対抗して、
省察と感情の双方において、主観性を解き放ったものと言うことができる。
ロマン主義者にとっては、主観性がはらむ極端で、極めて濃密で、奇抜な可能性の方が、
いずれにしても古典主義のように、魂の相対立する諸力を調整するよりも、
興味が惹かれ、重要なのである。
ロマン主義は「詩的」であり、世界の現実は「散文的」なものである。
自我と世界の不一致こそが、生についての見方と経験と感情を規定する。
人間は、よそよそしくて、疎外された世界に生きており、
この世界は、人間を締め付け、一面化して、
規範的で典型的なものや退屈な実用性に屈服させるのであり、
この世界の矛盾のために自我は引き裂かれる。
それはロマン主義的な流派のためである。
しかしロマン派は、素朴な宗教性というよりも、
信仰への根本的な疑念という不幸な意識を前提する、
省察を経た新しい宗教性を生じさせている。
ロマン派の特徴は、主観的、解き放たれた感情の支配である。
客観的な出来事、客観的な形姿ではなくて、
主観的な経験、魂が感じる物のほうに他ならない。
描かれるのは、例えば、イエスがどんな「気持ち」だったか、
それが表情や姿勢にどう反映しているか、である。
そして観る者は、描かれた魂の状態に、自らを一致させることが求められる。
宗教的な対象とその意味、客観性と信仰の真理に代わって、
以前にも増して、敬虔な思い、信仰する者の気分を、観る者に抱かせることが、前面に出てくる。
肖像画は、一定の社会的地位にある、その身分の威厳を表現することから、
「個人という身分」、個別的な内面に導かれ、「私的」で「自然」な存在となる。
ロマン主義は、啓蒙主義だけでなく、
古典主義が主張する客観的で確固たるもの、限定されて有限なものと対抗して、
省察と感情の双方において、主観性を解き放ったものと言うことができる。
ロマン主義者にとっては、主観性がはらむ極端で、極めて濃密で、奇抜な可能性の方が、
いずれにしても古典主義のように、魂の相対立する諸力を調整するよりも、
興味が惹かれ、重要なのである。
ロマン主義は「詩的」であり、世界の現実は「散文的」なものである。
自我と世界の不一致こそが、生についての見方と経験と感情を規定する。
人間は、よそよそしくて、疎外された世界に生きており、
この世界は、人間を締め付け、一面化して、
規範的で典型的なものや退屈な実用性に屈服させるのであり、
この世界の矛盾のために自我は引き裂かれる。