ニッパーダイを読みながら25

プロテスタントは保守主義派と自由主義派に分かれ、近代性と対決した。

1800年頃の神学は、
啓蒙主義と正統主義と敬虔主義という3つの動きによって規定されている。
キリスト教的な啓蒙主義は、ルター的であり、理性と個人の良心によって、
確信されるものでなけえればならなかった。

正統派は、啓示は理性を超越するものであるという立場を取った。
正統派は、カント的な合理主義的な論拠を用いて、
啓示の超自然的な成果を再び確立しようと努める。
(カントによれば、物自体を理解することはできない。)

敬虔主義は、敬虔な心に内面的な感情、罪と回心(神の道へ心を向けること)の体験、
職業と慈善の分野での敬虔な行いに基づいていた。

理性は悪魔の道具であり、奇跡を信じない(イエスは仮死状態だったと考える)という理性を否定する考え方がある。

敬虔主義が挙げた大きな成果の一つが、
キリスト教を実践する「事業」が設立されたことである。
聖書=伝道協会、貧民教育施設、看護施設、監獄協会、孤児院や病院、精神病者看護施設などである。
これらの活動は上から、すなわち教会からではなくて、
自由な協会、すなわち市民的な形態をとって展開された。
このような活動はプロテスタント全体に共通する「超党派」的な事業となっていた。
しかし、その出発点は敬虔主義である。

リベラルなプロテスタントは、理性の問題を神学に受け入れる。
聖書さえも、近代的な真理に照らして検討し、
そのようにしてのみ、良心に基づいた自由な信仰が成り立つのである。

啓蒙主義は、理性と道徳を重視し、非理性的なものを削除して、道徳に還元するが、
リベラル、観念論的哲学とは、理性と道徳以上のものであり、存在の全体を変えることである。
リベラルな神学は完成した教説ではなく、歴史主義である。
宗教とは無限なるものに「ひたすら帰依」する感情のことである。
この感情を、父と子(神とイエス)の関係として解釈する。
この解釈は、理性と結びついた学問としての神学に基づく。
敬虔な感情を、学問的に、哲学的に、検討するのである。

1848年の革命は、自由主義的な改革の失敗と、
国家主義的=保守主義的な教会施策の強化で終わった。
ルター派は、いかなる教会体制の改革も拒否し、古めかしい教会の形式や規定が再び確立され、
改革派(カルヴァン派)と厳密に区別され、自由主義的な牧師や大学教授は迫害され、
牧師による正統主義が、自由主義に対抗して確立された。

人間性に関する悲観主義、人間は根本的に悪であるという信念が当たっているのであれば、
人間にふさわしい秩序は、人間性や理性や個人の意思の上にではなくて、
神が定めたもうた神聖な権威、所与の諸制度の上にのみ築くことができる。
改革を経た西ヨーロッパ的=アメリカ的な政治神学のテーマ、
すなわち、権力は悪であって、監視される必要があり、
人間の悪意を抑制するのは、まさに憲法という制度的な仕組みなのであると考えは、
このような保守主義の政治神学のなかでは、いかなる役割も果たさない。

1848年の革命に対しては、正統派=敬虔主義派の抵抗が表面化する。
しかしながら革命側の自由主義者たちは、決して反教会的だったわけではなく、
むしろプロテスタント的な観点に基づく議論を展開するのである。

ドイツのプロテスタントは、民族派と反民族派の両方があった。