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ニッパーダイを読みながら54

反ユダヤ主義は、キリスト教とユダヤ教という宗教の違いといった、古いタイプだけでなく、 民族、あるいは生物的な人種を引き合いに出すようになった。 ユダヤ人は政治的に活動する場合には、 自由主義派の立場に立って活動することが多かった。 ユダヤ人は、何世紀にもわたって、職業が商業と金融に限定されており、 少数派が伝統的な行動パターンに対抗して発達させた、 イノベーションの才能に特別に恵まれていた。 障害が多かった闘いを経験してきたために、 ユダヤ人たちは自由主義的で進歩的な方向性に傾きやすかった。 とはいえ古風なユダヤ人や、保守的なユダヤ人や、非知識人のユダヤ人もいた。 反ユダヤ的、反資本主義的な発言も起こった。 ビスマルクの時代には、全体で500点以上の反ユダヤ主義文献が刊行されている。 ただし物質主義と道徳の堕落は、 ビスマルクと自由主義派とユダヤ人の同盟のせいだという主張もあった。 営業の自由は、手工業的な組合から、ユダヤ的だと非難された。 そして大規模経営やデパートの資本主義も同様に攻撃された。 農業の敵である自由主義・資本主義・社会主義とユダヤ人は同一視された。 民族主義は、植民地主義や反ユダヤ主義と結び付く。 人種理論は、社会ダーヴィニズムと結び付く。 自由主義派は反ユダヤ的ではなく、 あらゆる差別に抗して、ユダヤ人の同権を擁護した。 キリスト教国家という信念においては、「商人」としてのユダヤ人に、 国家の職務を委ねることはできなかった。

ニッパーダイを読みながら53

ナショナリズムは、フランス革命以降、 そしてロマン主義から影響を受けたドイツにおいても、 左派の進歩的な運動であり、市民派としての位置を占め、 君主主義的=国家主義的な保守派に矛先を向け、 より近代的な、市民的な民衆を、自らのために動員し、解放しようとしていた。 しかし1871年以降、国民派が支配するようになり、 ナショナリズムは「右」の大義となった。 ナショナリズムは保守的になったのである。 もっともドイツにおける市民的な左派も、国民的であり続けたのであった。 自由貿易主義者たちは、インターナショナルな、 国民的でない人たちと見なされたのだった。 社会民主主義勢力は、帝国ナショナリズムの敵となり、インターナショナリズムを支持した。 自由主義左派も、国民的な意識に欠けているとされ、 ビスマルクがそのような見方を広めた。 ポーランド人はほぼカトリックで、ドイツ人は大多数がプロテスタントであった。 ビスマルクは、どのような形のポーランド民族意識をも、 プロイセン=ドイツ国家を危険にさらすものと見なしていた。 それには反スラブ的な色彩も混じっていた。 もちろんプロイセンは法治国家となっており、 自由に対する保障と、司法制度は、ポーランド人に有利に働いた。 集会でのポーランド語の使用など、ポーランド人の市民的権利を守ってくれたのは、 プロイセンの上級裁判だった。 そしてポーランド人は選挙権を持っていた。 ポーランド人は、国民以前的な、プロイセンの中では暮らしていくことができたであろうが、 新たなドイツ国民国家の中で暮らすことはできないだろうと思われていた。 1872年の学校監督法では、カトリックのポーランド人聖職者は、 全面的に世俗の監督官に置き換えられた。 ビスマルクは文化闘争という、反カトリック政策をとっていた。 中等教育では、宗教の授業にもドイツ語が導入された。 ポーランド語の授業は制限された。 官庁と裁判所の言語としても、ドイツ語が義務付けられた。 もっともドイツ人には、反ポーランド的というわけでもなかった政党、 中央棟や、社会民主党や、自由主義左派が存在していた。 反ユダヤ主義は、ポーランド人の間にも広まっていた。 ユダヤ人の流出は、ポーランド人に有利に働いた。 都市の手工業者と商人のポストに進出できたという点でも。 ゲルマン人には、スラブ人について...