ニッパーダイを読みながら53

ナショナリズムは、フランス革命以降、
そしてロマン主義から影響を受けたドイツにおいても、
左派の進歩的な運動であり、市民派としての位置を占め、
君主主義的=国家主義的な保守派に矛先を向け、
より近代的な、市民的な民衆を、自らのために動員し、解放しようとしていた。
しかし1871年以降、国民派が支配するようになり、
ナショナリズムは「右」の大義となった。
ナショナリズムは保守的になったのである。
もっともドイツにおける市民的な左派も、国民的であり続けたのであった。
自由貿易主義者たちは、インターナショナルな、
国民的でない人たちと見なされたのだった。
社会民主主義勢力は、帝国ナショナリズムの敵となり、インターナショナリズムを支持した。
自由主義左派も、国民的な意識に欠けているとされ、
ビスマルクがそのような見方を広めた。

ポーランド人はほぼカトリックで、ドイツ人は大多数がプロテスタントであった。
ビスマルクは、どのような形のポーランド民族意識をも、
プロイセン=ドイツ国家を危険にさらすものと見なしていた。
それには反スラブ的な色彩も混じっていた。

もちろんプロイセンは法治国家となっており、
自由に対する保障と、司法制度は、ポーランド人に有利に働いた。
集会でのポーランド語の使用など、ポーランド人の市民的権利を守ってくれたのは、
プロイセンの上級裁判だった。
そしてポーランド人は選挙権を持っていた。

ポーランド人は、国民以前的な、プロイセンの中では暮らしていくことができたであろうが、
新たなドイツ国民国家の中で暮らすことはできないだろうと思われていた。

1872年の学校監督法では、カトリックのポーランド人聖職者は、
全面的に世俗の監督官に置き換えられた。
ビスマルクは文化闘争という、反カトリック政策をとっていた。
中等教育では、宗教の授業にもドイツ語が導入された。
ポーランド語の授業は制限された。
官庁と裁判所の言語としても、ドイツ語が義務付けられた。

もっともドイツ人には、反ポーランド的というわけでもなかった政党、
中央棟や、社会民主党や、自由主義左派が存在していた。

反ユダヤ主義は、ポーランド人の間にも広まっていた。
ユダヤ人の流出は、ポーランド人に有利に働いた。
都市の手工業者と商人のポストに進出できたという点でも。

ゲルマン人には、スラブ人について、社会ダーヴィニズム的な考え方を持つ人たちもいた。