ニッパーダイを読みながら16
「リベラル(自由主義)」という言葉は、最初は1812年のスペインの憲法の支持者たちを指して、
創り出された言葉だが、それは、政治の分野だけに留まらず、
教会や経済や他人に対する姿勢についても用いられる。
自由主義は、個人の自律性、個人の自己決定と理性から出発する。
それは啓蒙主義の遺産であり、とりわけドイツでは、カントの遺産である。
自由主義は、伝統に矛先を向ける。
それは身分と社団による伝統的な拘束に、
そして個人に対する官僚と支配者による後見に矛先を向けるのであり、
したがって、自律性とは解放を意味する。
封建的=社団的な社会と、官憲的な国家との双方に対して、
戦線を張る点に、自由主義の特徴がある。
他人と、その可能性や諸力を開花させることが、
人生観の中心に位置するのであり、そこから初めて、国家と社会の意味と目的も規定される。
とは言え、個人の自律性と自由は、反国家的でアナーキズム的なものとに、
考えられているわけではなくて、これもカントの影響を受けてのことだが、
法律に基づく自由を意味している。
国家からの自由というよりも、国家における自由、国家への自由なのである。
自由主義にとって、国家活動の内容と方法は制限されるべきであり、
個人の自由は、国家の過大な権力から守られるべきものである。
国民は、自らが自らを規定し、統治することを望み(それが国民主権の原則である)、
あるいは少なくとも共同決定権を、統治への参加を望む。
統治は、被統治者の同意がある場合にのみ、正当なものとなる。
自由主義的な原理(国家の行き過ぎに対して個人を守るという)の傍らに、
民主主義的な原理が登場し、それは多数派による支配という要求に行き着く。
自由主義と民主主義とは、論理的にも歴史的にも同一というわけではない。
多数派が望むという理由で、イエズス会を追放することがあり得るし、
その一方で、イエズス会の自由への権利、少数派としての権利を擁護することもあり得る。
しかし、この二つの原理は、どちらも現状の変革を望む、一つの大いなる運動に所属している。
自由主義は、市民階層の運動だった。
理性、自律性、基本的人権、個人の自由、私有財産の自由と保障、
法の前の平等と法の保障、そして監視的な警察国家と封建的な社会への反対、
それらは、市民的な原理と利害を表すものに他ならない。
19世紀の自由主義は、ロマン主義と歴史主義から影響を受けている。
個人主義だけではなくて、民族に目が向けられるようになった。
それは、自由主義に、いくらか保守的な色彩を与えることになった。
ロマン主義、歴史主義との同盟は、自由主義を強めることになった。
ドイツでは、ビスマルクが自由主義派と闘う手段として、普通選挙権が導入された。
自由主義の理論によれば、議会が果たすべき機能の一つは、政府を監視することだった。
君主に責任を問うことはできず、その限りでは「無責任」な存在だったのであり、
この問題は、大臣「責任制」を要求するものだった。
すなわち、大臣は君主の行為への責任を負うべきであった。
大臣は、憲法の枠の中で行動するべきであり、
そして議会は、大臣が憲法に違反した場合には、弾劾する権利を持つべきだとされた(大臣弾劾制)。
自由主義者たちは、経済的・社会的な進歩を信じていた。
しかし、それと同時に彼らは産業、資本主義、市場原理と競争原理に対しては、
極めてアンビバレントな姿勢を取っており、
社会的な安定が脅かされ、大衆貧窮が蔓延し、
階級が両極化して厳しく対立し合う状況が生じつつあると考えたのであり、
自由主義者たちは、零細な人たちを「保護」することを支持し、
過度の自由放任政策に反対し、全面的な営業の自由に反対していた。
要するに、自由主義者たちは、経済自由主義を支持していなかったのである。
自由主義者たちの社会像は、産業化以前のままであり、
成長とダイナミズムではなくて、安定と平衡状態を、
競争と争いではなくて、様々な勢力や利害の間の調和を指向していた。
自由主義者たちが理想としたのは、数多くの零細な自立した人たち、
土地所有者、手工業者、農民からなる社会であり、
一方での才能・業績と、他方での出身・相続とがバランスを取るような、
無階級市民社会に近い社会だった。
本当の民とは、自立した人びとから成る幅広い中程度の層、
中間の諸階級のことなのであって、二つに分かれて対立し合う社会は望ましくないとされた。
しかし、当然のことながら、彼らは平等主義者だったわけではなく、
財産も教養もない大衆、下層民に対する不安が、
自由主義者の思考の一つの極となり続けていた。
自由主義者たちは、市民的な業績社会を支持していた一方で、
産業と市場には、距離を置いていた。
そのような姿勢は長期的には持ちこたえることができず、
結局のところ、自由主義者たちは、
営業の自由と居住の自由を求めざるを得なかったのである。
市民的=政治運動としての自由主義は、
元々は密接に結び付いていた、と言うよりも、殆ど一体の関係にあった、
改革派官僚たちの自由主義と分かれていく。
上からの国家と社会の近代化と、
社会の側からの共同決定と自己決定を通した近代化とは、袂を分かち、
社会の側は、解放されるのではなくて、自ら解放することを望むようになるのである。
自由主義運動は、憲法のほうを、行政よりも優先するようになった。
創り出された言葉だが、それは、政治の分野だけに留まらず、
教会や経済や他人に対する姿勢についても用いられる。
自由主義は、個人の自律性、個人の自己決定と理性から出発する。
それは啓蒙主義の遺産であり、とりわけドイツでは、カントの遺産である。
自由主義は、伝統に矛先を向ける。
それは身分と社団による伝統的な拘束に、
そして個人に対する官僚と支配者による後見に矛先を向けるのであり、
したがって、自律性とは解放を意味する。
封建的=社団的な社会と、官憲的な国家との双方に対して、
戦線を張る点に、自由主義の特徴がある。
他人と、その可能性や諸力を開花させることが、
人生観の中心に位置するのであり、そこから初めて、国家と社会の意味と目的も規定される。
とは言え、個人の自律性と自由は、反国家的でアナーキズム的なものとに、
考えられているわけではなくて、これもカントの影響を受けてのことだが、
法律に基づく自由を意味している。
国家からの自由というよりも、国家における自由、国家への自由なのである。
自由主義にとって、国家活動の内容と方法は制限されるべきであり、
個人の自由は、国家の過大な権力から守られるべきものである。
国民は、自らが自らを規定し、統治することを望み(それが国民主権の原則である)、
あるいは少なくとも共同決定権を、統治への参加を望む。
統治は、被統治者の同意がある場合にのみ、正当なものとなる。
自由主義的な原理(国家の行き過ぎに対して個人を守るという)の傍らに、
民主主義的な原理が登場し、それは多数派による支配という要求に行き着く。
自由主義と民主主義とは、論理的にも歴史的にも同一というわけではない。
多数派が望むという理由で、イエズス会を追放することがあり得るし、
その一方で、イエズス会の自由への権利、少数派としての権利を擁護することもあり得る。
しかし、この二つの原理は、どちらも現状の変革を望む、一つの大いなる運動に所属している。
自由主義は、市民階層の運動だった。
理性、自律性、基本的人権、個人の自由、私有財産の自由と保障、
法の前の平等と法の保障、そして監視的な警察国家と封建的な社会への反対、
それらは、市民的な原理と利害を表すものに他ならない。
19世紀の自由主義は、ロマン主義と歴史主義から影響を受けている。
個人主義だけではなくて、民族に目が向けられるようになった。
それは、自由主義に、いくらか保守的な色彩を与えることになった。
ロマン主義、歴史主義との同盟は、自由主義を強めることになった。
ドイツでは、ビスマルクが自由主義派と闘う手段として、普通選挙権が導入された。
自由主義の理論によれば、議会が果たすべき機能の一つは、政府を監視することだった。
君主に責任を問うことはできず、その限りでは「無責任」な存在だったのであり、
この問題は、大臣「責任制」を要求するものだった。
すなわち、大臣は君主の行為への責任を負うべきであった。
大臣は、憲法の枠の中で行動するべきであり、
そして議会は、大臣が憲法に違反した場合には、弾劾する権利を持つべきだとされた(大臣弾劾制)。
自由主義者たちは、経済的・社会的な進歩を信じていた。
しかし、それと同時に彼らは産業、資本主義、市場原理と競争原理に対しては、
極めてアンビバレントな姿勢を取っており、
社会的な安定が脅かされ、大衆貧窮が蔓延し、
階級が両極化して厳しく対立し合う状況が生じつつあると考えたのであり、
自由主義者たちは、零細な人たちを「保護」することを支持し、
過度の自由放任政策に反対し、全面的な営業の自由に反対していた。
要するに、自由主義者たちは、経済自由主義を支持していなかったのである。
自由主義者たちの社会像は、産業化以前のままであり、
成長とダイナミズムではなくて、安定と平衡状態を、
競争と争いではなくて、様々な勢力や利害の間の調和を指向していた。
自由主義者たちが理想としたのは、数多くの零細な自立した人たち、
土地所有者、手工業者、農民からなる社会であり、
一方での才能・業績と、他方での出身・相続とがバランスを取るような、
無階級市民社会に近い社会だった。
本当の民とは、自立した人びとから成る幅広い中程度の層、
中間の諸階級のことなのであって、二つに分かれて対立し合う社会は望ましくないとされた。
しかし、当然のことながら、彼らは平等主義者だったわけではなく、
財産も教養もない大衆、下層民に対する不安が、
自由主義者の思考の一つの極となり続けていた。
自由主義者たちは、市民的な業績社会を支持していた一方で、
産業と市場には、距離を置いていた。
そのような姿勢は長期的には持ちこたえることができず、
結局のところ、自由主義者たちは、
営業の自由と居住の自由を求めざるを得なかったのである。
市民的=政治運動としての自由主義は、
元々は密接に結び付いていた、と言うよりも、殆ど一体の関係にあった、
改革派官僚たちの自由主義と分かれていく。
上からの国家と社会の近代化と、
社会の側からの共同決定と自己決定を通した近代化とは、袂を分かち、
社会の側は、解放されるのではなくて、自ら解放することを望むようになるのである。
自由主義運動は、憲法のほうを、行政よりも優先するようになった。