ニッパーダイを読みながら55
自由主義は、プロテスタントであり、文化闘争(反カトリック運動)の立場をとっていた。
文化闘争は、ビスマルクを右派やカトリックから引き離し、彼を自由主義に結び付けた。
自由主義派は、左右双方の競争者が主張したように、
資本主義的なブルジョアジーの党であるわけではなかった。
確かに、自由主義派は市民層の党であった。
しかし、少なくとも当初のうちは民衆を支えとすることができた。
自由主義派は「マンチェスター的」な自由主義であった。
とはえ普通選挙権は、伝統主義や社会民主派に、民衆的な支えを提供し、
自由主義派は次第に市民層の政党になった。
自由主義左派は、社会主義鎮圧法を拒否し、
マンチェスター主義を守るという点で保守的な姿勢を示した。
自由のために社会保険に反対したのである。
自由主義派は、ポピュリズムと社会主義とは異なる。
社会主義の台頭とともに、自由主義派は右から左へと押しやられる。
保守派は、君主と政府、地方エリート、教会、軍と貴族、農村部を護ろうとする。
その意味で、自由主義に対抗している。
1875年に書かれた論文では、その頃の経済政策は、自由主義的=資本主義的な政策であり、
ユダヤ人のための利潤追求を特徴としていると主張されている。
とはいえ、穏健な保守主義者たちは、極端な反ユダヤ主義に反対していた。
反ユダヤ主義と保守主義は、そのまま同じものではない。
保守主義は、議会主義を否定し、社会の平等を拒否した。
保守主義は、個人主義を否定し、家父長主義と伝統と宗教を、資本主義から守ろうとした。
文化闘争は、カトリックに対して、官僚的な国家、国民的な自由主義、教皇至上主義の攻勢という、
三重の攻勢から成るものである。
(カトリックにも教皇至上主義とは違う勢力がいるらしいですね。)
プロイセンでは、カトリックの修道院が襲撃されたりして、
修道院を守ることが、差し迫った問題となっていた。
小ドイツ主義=プロイセン的な運動は、プロテスタンティズムと結び付いている。
カトリックはオーストリアと結び付く、大ドイツ主義に共感を寄せている。
小ドイツ主義が勝利してからは、カトリック派は、小ドイツ主義帝国のなかで、
少数派となったのである。
プロイセンに距離を置く勢力は、連邦主義を強調した。
ドイツでも、カトリックの政党として、中央党が結成されたが、
イギリスやアメリカでカトリック党が存在せず、
自由主義派がカトリックの利害を受け入れたのは、本質的に二大政党制のためであった。
カトリック派=大ドイツ的な遺産と、南ドイツ的な反プロイセン主義は連合した。
ドイツのカトリックには、三つの政治神学が存在していた。
正統主義と権威、拘束と伝統を強調する保守的な神学と、
市民的な自由と憲法を強調する自由主義的な神学と、
社会と民衆を強調する、社会カトリシズムという形を取った、民主主義的な神学とである。
ドイツのカトリック住民は、農村部的=小都市的な構造を持っており、
近代的な都市的部門では、プロレタリア的な要素が多くて、
企業家=経済市民的、教養市民=アカデミカー的な要素が少なかった。
文化闘争は、ビスマルクを右派やカトリックから引き離し、彼を自由主義に結び付けた。
自由主義派は、左右双方の競争者が主張したように、
資本主義的なブルジョアジーの党であるわけではなかった。
確かに、自由主義派は市民層の党であった。
しかし、少なくとも当初のうちは民衆を支えとすることができた。
自由主義派は「マンチェスター的」な自由主義であった。
とはえ普通選挙権は、伝統主義や社会民主派に、民衆的な支えを提供し、
自由主義派は次第に市民層の政党になった。
自由主義左派は、社会主義鎮圧法を拒否し、
マンチェスター主義を守るという点で保守的な姿勢を示した。
自由のために社会保険に反対したのである。
自由主義派は、ポピュリズムと社会主義とは異なる。
社会主義の台頭とともに、自由主義派は右から左へと押しやられる。
保守派は、君主と政府、地方エリート、教会、軍と貴族、農村部を護ろうとする。
その意味で、自由主義に対抗している。
1875年に書かれた論文では、その頃の経済政策は、自由主義的=資本主義的な政策であり、
ユダヤ人のための利潤追求を特徴としていると主張されている。
とはいえ、穏健な保守主義者たちは、極端な反ユダヤ主義に反対していた。
反ユダヤ主義と保守主義は、そのまま同じものではない。
保守主義は、議会主義を否定し、社会の平等を拒否した。
保守主義は、個人主義を否定し、家父長主義と伝統と宗教を、資本主義から守ろうとした。
文化闘争は、カトリックに対して、官僚的な国家、国民的な自由主義、教皇至上主義の攻勢という、
三重の攻勢から成るものである。
(カトリックにも教皇至上主義とは違う勢力がいるらしいですね。)
プロイセンでは、カトリックの修道院が襲撃されたりして、
修道院を守ることが、差し迫った問題となっていた。
小ドイツ主義=プロイセン的な運動は、プロテスタンティズムと結び付いている。
カトリックはオーストリアと結び付く、大ドイツ主義に共感を寄せている。
小ドイツ主義が勝利してからは、カトリック派は、小ドイツ主義帝国のなかで、
少数派となったのである。
プロイセンに距離を置く勢力は、連邦主義を強調した。
ドイツでも、カトリックの政党として、中央党が結成されたが、
イギリスやアメリカでカトリック党が存在せず、
自由主義派がカトリックの利害を受け入れたのは、本質的に二大政党制のためであった。
カトリック派=大ドイツ的な遺産と、南ドイツ的な反プロイセン主義は連合した。
ドイツのカトリックには、三つの政治神学が存在していた。
正統主義と権威、拘束と伝統を強調する保守的な神学と、
市民的な自由と憲法を強調する自由主義的な神学と、
社会と民衆を強調する、社会カトリシズムという形を取った、民主主義的な神学とである。
ドイツのカトリック住民は、農村部的=小都市的な構造を持っており、
近代的な都市的部門では、プロレタリア的な要素が多くて、
企業家=経済市民的、教養市民=アカデミカー的な要素が少なかった。