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フランス革命の「人民主権」は限定的

人権宣言は「すべての市民またはその代表」が法の制定に参加できることを、 「人民主権」の権利と定めていたが、 直接参加の線をどこに引くべきかは不明確であった。 最終的に議会は、すべての女性と成人男性のおよそ5分の2を排除した。 後者は3日分の賃金額に相当する租税を支払えないほど貧しい人びとである。

「国民万歳!ネッケル万歳!国民議会万歳!」

パンの値上がりは、貴族の地主たちが意図的に、 穀物供給を差し控えた結果であると広く考えられた。 ネッケルの運命が食料そうゆうと抵抗運動を、 暴力的な反乱行為へと変えた。 「ネッケル氏の打倒を必死になって目論む諸侯たちが、 彼をより効果的に失脚させるため、意図的に穀物を退蔵している」 7月11日のネッケル罷免は、こうした疑念を決定づけた。 7月14日、バスティーユは陥落した。 ルイ16世は、7月14日、ネッケルの召喚を宣言した。 ネッケル罷免後に大臣職にあったフーロンは殴り殺しにされ、首をはねられた。 1788年から1789年にパリ市民が経験した長期の飢饉を、 フーロンが謀って悪化させたという疑いへの報復であった。

カルヴァン派と国家財政の改善

1788年8月には、フランス国家は実質的に破産に陥った。 その打開策の一つとして、ネッケルを首席大臣として呼び戻した。 彼は1781年に解任された際、たとえ不正確だとしても、 民衆からは国庫を黒字化したと信じられていた。 ネッケルはラモワニョンの提案した司法改革を素早く退け、 当面の国家破産を回避するために十分な資金を、 借り入れることができた。 ↓ カルヴァン派を登用すると、財政が良くなる、 という仕組みがあるのだろうか。

フリーメーソンはブルジョア

フリーメーソンの普及は、貴族的エリートの規範から外れたところにある 独特なブルジョア文化の表現の一部をなしていた。 (フリーメーソンについては情報が錯綜しているので、 あくまで1つの見方にすぎませんが。) 科学、進歩、理性、啓蒙、自由、百科全書、消費文化、世界市民、 人間に普遍的に内在する権利、愛国者(パトリオット)、民主主義、 などなど、ブルジョア革命には興味深い思想が含まれていますが、 マルクスの共産主義、プロレタリアートによる階級闘争 を忘れてはならないでしょう。 ブルジョア革命は、絶対王政と神権政治を批判しましたが、 経済的弱者(労働者)には、搾取の思想で臨んだのです。 「ガゼット・ド・レイド」というブルジョア的雑誌は、 プロテスタント(恐らくはカルヴァン派)により、 賃金労働者の手の届く範囲をはるかに超える支払いで、 オランダで発行された。

ネッケルは貴族ではない。

ネッケルは、ルイ16世が任じた唯一人の貴族出身でない大臣であった。 ↓ ネッケルは貴族ではなく、カルヴァン派のブルジョアであり、 フランス革命の、反貴族という特徴を示しているのかもしれません。

フランス革命とカルヴァン派のネッケルの関係は?

ルイ14世によるナントの王令廃止(1685年)以降、 18世紀を通じて王政によるプロテスタント弾圧が繰りかえされたが、 「啓蒙の世紀」が後半に進むにつれて弾圧政策への疑義が広まり、 ルイ16世は1787年には「寛容王令」に署名し、 プロテスタントに信仰の自由は公認しなかったものの、 彼らの存在は合法化した。 カトリック教会の側は、こうした状況に危機感を持った。 … (フランス革命の進展に対して)、 宮廷からの反撃の手始めとして、 それまでとかく第三身分に融和的な態度をとる 自由主義官僚の財務長官ネッケルが、7月11日に罷免された。 ここから、事態が急変する。 ネッケル罷免の知らせは、欲12日午後に首都パリに届き、 午後から市中が騒然となった。 14日には、早朝からおそらく数万の民衆が、 バスティーユを取り囲んだ。 100人以上の死者のでた銃撃戦のすえに、 民衆はバスティーユを占領した。 ↓ フランス革命は、聖職者、貴族に対して、 ブルジョア(第三身分富裕層)による革命だとされていますが、 ネッケルの罷免が関係ある以上、 フランス革命の主体は、富を蓄えているカルヴァン派と関係があるのだろうか? もしかするとブルジョア革命とは、カルヴァン派による革命なのか? フランス革命とカルヴァン派の諸国と関係があるのかどうかは、 興味深いところです。 この推論には根拠はありませんが。

カルヴァン派と東インド会社の関係はいかなるものか?

ルイ16世時代の財務総監の1人、フランス革命前夜に活動したネッケルは、 ジュネーブの大銀行家の家に生まれ、プロテスタントであり、 東インド会社に関する投機で、巨額の富を築いた。 東インド会社は、アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社。 ネッケルは、穀物の自由取引をはげしく攻撃する、 重農主義批判の著作で知られている。 当時おこっていたアメリカ独立戦争の莫大な戦費を調達するために、 宝くじ、終身年金の売り出しや、パリ市、聖職者会議、地方三部会を 介しての間接的借入れ、また自分の知名度を利用して、 オランダ、スイスなど外国銀行からの借入など、 あらゆる手段で大規模な借金政策を展開した。 東インド会社再建の銀行家的流儀でもって、 国家財政をまかなったわけである。 増税なしに戦費を調達するネッケルの手腕に、人気は高まり、 公債売買でうるおうパリの投機業者はこれを歓迎した。 ↓ 恐らくはカルヴァン派であるネッケルが、 経済的自由主義を否定しているのは、興味深いですね。 ネッケルの論敵であるのテゥルゴの、 「自由主義的方向性が特権や独占の享受者に警戒心を強めさせ、 高等法院と通ずる国璽尚書ミロメニルはこれを阻止しようと暗躍した。」 特許会社という国策とか規制と資本主義の関係は、 僕にはまだまだ理解不能です。 ちなみにアメリカ独立戦争は、フランス革命の親である、という見方もあります。

子供は知恵の実を食べていない。

人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。 エデンの園の中央にある木の実を食べると、神のように善悪を知る者となる。 彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。 すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。 彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。 ↓ 子供は裸を恥ずかしがりません。 イエスが、幼子のようになりなさい、と説くのは、 幼子が、知恵の実を食べておらず、エデンの園にいるからなのでしょう。 イエスが無実なのに血を流したのは、 幼子が苦しむのと同じことなのです。

ノアの箱舟

主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、 地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 主は言われた。 「私は、創造した人を地の面から消し去る。 人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。 私はこれらを造ったことを悔やむ。」 だが、ノアは主の目に適う者であった。 … その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった。 神と共に歩んだのはノアであった。

司祭と世俗教師の対立

フランスの「19世紀には原則として、農民や労働者の子供と、 弁護士や医者の子供がともに学ぶことも、 男女が同じ場所で同じ教育を受けることも想定されていなかった。 19世紀のフランスは、子供の教育の指導権をめぐって、 カトリック教会と国家の間でヘゲモニー(覇権)争いが起こった時代である。 時代をさかのぼって、フランス革命以前に子供の教育に関して、 強い影響力をもっていたのはカトリック教会であった。 非キリスト教化を推し進めたフランス革命により状況が変わったとはいえ、 19世紀には再び教会の威信の回復を望む勢力があり、 信者を改めて獲得するため学校を利用しようとした。 他方で、革命を継承しなければならないと考える人びとは、 教会の影響力の拡大を警戒し、聖職者ではなく、 世俗の教師による公教育の普及に努めようとした。 女子教育についてナポレオンは、 『私は、若い娘の教育に国家が取り組むべきだとは思わない。 娘をよりよく育てられるのは母親しかいない。… 信心深い女性を育ててください。理屈っぽい女性ではなく』と述べた。 女性は慎ましく、信心深く、よき妻・母になるための教育を受けるのが理想であった。 女性教師として、修道女に白羽の矢が立ったのは不思議ではなかろう。 ナポレオン治世下の1804~1813年に認可された女子修道会は、95を数えた。

フランスとイエズス会の関係

フランスの「カトリック勢力は一枚岩だったわけではない。 ローマ教皇権の介入をできる限り排除しなければならなかった。 この点で、イエズス会士は、 入会時に「教皇への服従」の誓いを立てていたため、 常に微妙な立場にあった。 世論はイエズス会士を「教皇の手先」とみなし、 彼らへの反感のまなざしを強めていく。 最終的に、1764年の王令により、王国内のイエズス会の廃止が決定されるに至った。 イエズス会の活動がフランスで再開するのは、 フランス革命、さらにナポレオン第一帝政が終わった1815年に入ってからである。」

カルヴァン派の都市

フランスの、1685年のナント王令の廃止、すなわちプロテスタント信教の禁止による、 数千人の亡命者が、外国で海運業を営むことによって、 「ロンドン、アムステルダム、ニューヨーク、ボストン」などを結ぶ、 カルヴァン派の交易ネットワークの素地を作った。 カルヴァンの実践は「ジュネーブ」でなされた。

カペー朝からヴァロワ朝へ、百年戦争の始まり

「新しく学ぶフランス史」より 「フィリップ4世の子は…いずれも短命で、 男子の後継者を残さなかった。 1328年、王位はフィリップ4世の弟シャルルの家門、ヴァロワ家に渡る。 この王位継承に意を唱える者たちによって、 1337年に戦端が開かれる。これがいわゆる百年戦争である。」 「少なくともカペー家とヴァロワ家の王たちは、 自らの国が新しく生まれたものであるとは考えていなかった。」 百年戦争で重要なのは、ジャンヌダルクです。