ルイ14世によるナントの王令廃止(1685年)以降、 18世紀を通じて王政によるプロテスタント弾圧が繰りかえされたが、 「啓蒙の世紀」が後半に進むにつれて弾圧政策への疑義が広まり、 ルイ16世は1787年には「寛容王令」に署名し、 プロテスタントに信仰の自由は公認しなかったものの、 彼らの存在は合法化した。 カトリック教会の側は、こうした状況に危機感を持った。 … (フランス革命の進展に対して)、 宮廷からの反撃の手始めとして、 それまでとかく第三身分に融和的な態度をとる 自由主義官僚の財務長官ネッケルが、7月11日に罷免された。 ここから、事態が急変する。 ネッケル罷免の知らせは、欲12日午後に首都パリに届き、 午後から市中が騒然となった。 14日には、早朝からおそらく数万の民衆が、 バスティーユを取り囲んだ。 100人以上の死者のでた銃撃戦のすえに、 民衆はバスティーユを占領した。 ↓ フランス革命は、聖職者、貴族に対して、 ブルジョア(第三身分富裕層)による革命だとされていますが、 ネッケルの罷免が関係ある以上、 フランス革命の主体は、富を蓄えているカルヴァン派と関係があるのだろうか? もしかするとブルジョア革命とは、カルヴァン派による革命なのか? フランス革命とカルヴァン派の諸国と関係があるのかどうかは、 興味深いところです。 この推論には根拠はありませんが。