ニッパーダイを読みながら1
19世紀初頭の15年間、ドイツ人はナポレオンの圧倒的な影響の下におかれた。
この時代ほど、生活が外部からの圧力にさらされていた時代はめったにない。
国家を大きく変えた改革は、この圧力から決定的な影響をこうむっていた。
フランス革命は世界史における画期となったが、
ドイツ人がそれを実際に体験したのは、ナポレオンの下においてであった。
1000年続いた神聖ローマ帝国は解体された。
イギリスとロシアは同盟し、フランスを封じ込めようとした。
ナポレオンはイギリスとの経済的戦争に勝利することを求めて、
「大陸封鎖例」(ヨーロッパ大陸とイギリスの貿易を禁止すること)を出した。
もっとも密輸は防げなかったが。
ナポレオンの帝国は外国人による支配を意味しており、
諸国民の抵抗を呼び覚ました(スペインの民衆蜂起など)。
ナポレオンの帝国は、抑圧の体制だった。
しかし、フランス革命の成果である、封建的・身分制の解体は引き継がれた。
それはリベラルな行政の恵みであった。
民衆は、絶対君主制と封建体制と官僚統治によって、
消極的な姿勢を取ることに慣らされていて、
ゲリラ戦を行うほどの力を、まだ、持っていなかった。
民衆蜂起には、革命の時代に予想される、国民革命的で民主主義的な運動と、
保守的な地域主義の精神に基づく解放闘争があった。
1806年に『極度に辱められているドイツ』という文書を広めたパルムという人は、
ナポレオンの命令で処刑された。
オーストリアの抵抗は失敗に終わり、
その後、大臣のメッテルニヒは40年近くその地位に留まるが、
フランスに協力する政策をとった。
1810年、ナポレオンはオーストリア皇帝の息女と結婚した。
ナポレオンは、革命と、革命以前の古風な政治の手段を用いて、
帝国を安定させようとしたのである。
ナポレオンを支持する「親フランス党」が、オーストリアとプロイセンにも存在した。
ヘーゲルはナポレオンの崇拝者だった。
一方、ロマン主義者は、国民的、民主主義の擁護者として、
ドイツの歴史と文化を再発見しようとした。
ドイツにおけるナポレオンの支配は、近代的な国家の土台を創り出した。
その影響は1848年、1860年代までに至る、ドイツの歴史を規定することになった。
市民的な自由と法の前の平等に基づく市民的な社会という、新しい理念が、
封建的=身分制的体制から、その正当性を奪ってしまったのだった。
絶対主義期と啓蒙主義の改革を継承し、「上からの革命」
「君主主義的統治における民主主義的諸原則」「官僚的国家」の実現をめざしたのであった。
第一に、国家の主権を住民の一人一人に至るまで定着させること。
第二に、国家のそれぞれの部分的な地域を一つにまとめあげること。
第三に、個人の力を封建的国家による拘束から解放することが目指された。
国民が国家に参画するのは、身分制社会が、市民的社会に変わって、初めて実現された。
しかし革命的な改革を担ったのは、大衆でも、市民でもなく、官僚であった。
絶対主義的、王朝主義的世界、特殊個別的利害に対抗して、
官僚は、法と理性と公益と真の国家理性に従う、「普遍的身分」なのだと考えられていた。
その枠のなかでのみ、国民の参加もあり得るのである。
しかし、諸改革は、絶対主義と啓蒙主義の影響を大きく受けていた。
フリードリヒ大王の時代には、プロイセンは、啓蒙主義的な、改革を推進する進歩的な国だった。
啓蒙主義的改革の刺激はその後も生じ続けたものの、しかし同時に停滞状態に陥ってもいた。
近代化に至ることはなく、封建的な自律状態が存続したままだったのである。
プロイセンの改革は啓蒙主義を追い抜いて、カント哲学という土台の上に立っている。
命令と服従を超え、単なる伝統を超えて、人間が自身の内面に導かれつつ、
純然たる自己の利害や啓蒙主義の功利主義的モラルや幸福モラルを超えて、
善と義務とを志向することである。
啓蒙主義から離れて、理想的、観念的な哲学に転じたことで、
プロイセンの諸改革はフランスのモラルに対して、一定度の距離を取ることになり、
イギリスモデルのほうを好むことになる。
アダム・スミスの自由主義的な経済理論、すなわち、
個人の経済活動の自由化と競争こそが、個人のエゴイズムこそが、
経済の繁栄と、公益を促進するという信念が、哲学と並ぶ位置を占めた。
この時代ほど、生活が外部からの圧力にさらされていた時代はめったにない。
国家を大きく変えた改革は、この圧力から決定的な影響をこうむっていた。
フランス革命は世界史における画期となったが、
ドイツ人がそれを実際に体験したのは、ナポレオンの下においてであった。
1000年続いた神聖ローマ帝国は解体された。
イギリスとロシアは同盟し、フランスを封じ込めようとした。
ナポレオンはイギリスとの経済的戦争に勝利することを求めて、
「大陸封鎖例」(ヨーロッパ大陸とイギリスの貿易を禁止すること)を出した。
もっとも密輸は防げなかったが。
ナポレオンの帝国は外国人による支配を意味しており、
諸国民の抵抗を呼び覚ました(スペインの民衆蜂起など)。
ナポレオンの帝国は、抑圧の体制だった。
しかし、フランス革命の成果である、封建的・身分制の解体は引き継がれた。
それはリベラルな行政の恵みであった。
民衆は、絶対君主制と封建体制と官僚統治によって、
消極的な姿勢を取ることに慣らされていて、
ゲリラ戦を行うほどの力を、まだ、持っていなかった。
民衆蜂起には、革命の時代に予想される、国民革命的で民主主義的な運動と、
保守的な地域主義の精神に基づく解放闘争があった。
1806年に『極度に辱められているドイツ』という文書を広めたパルムという人は、
ナポレオンの命令で処刑された。
オーストリアの抵抗は失敗に終わり、
その後、大臣のメッテルニヒは40年近くその地位に留まるが、
フランスに協力する政策をとった。
1810年、ナポレオンはオーストリア皇帝の息女と結婚した。
ナポレオンは、革命と、革命以前の古風な政治の手段を用いて、
帝国を安定させようとしたのである。
ナポレオンを支持する「親フランス党」が、オーストリアとプロイセンにも存在した。
ヘーゲルはナポレオンの崇拝者だった。
一方、ロマン主義者は、国民的、民主主義の擁護者として、
ドイツの歴史と文化を再発見しようとした。
ドイツにおけるナポレオンの支配は、近代的な国家の土台を創り出した。
その影響は1848年、1860年代までに至る、ドイツの歴史を規定することになった。
市民的な自由と法の前の平等に基づく市民的な社会という、新しい理念が、
封建的=身分制的体制から、その正当性を奪ってしまったのだった。
絶対主義期と啓蒙主義の改革を継承し、「上からの革命」
「君主主義的統治における民主主義的諸原則」「官僚的国家」の実現をめざしたのであった。
第一に、国家の主権を住民の一人一人に至るまで定着させること。
第二に、国家のそれぞれの部分的な地域を一つにまとめあげること。
第三に、個人の力を封建的国家による拘束から解放することが目指された。
国民が国家に参画するのは、身分制社会が、市民的社会に変わって、初めて実現された。
しかし革命的な改革を担ったのは、大衆でも、市民でもなく、官僚であった。
絶対主義的、王朝主義的世界、特殊個別的利害に対抗して、
官僚は、法と理性と公益と真の国家理性に従う、「普遍的身分」なのだと考えられていた。
その枠のなかでのみ、国民の参加もあり得るのである。
しかし、諸改革は、絶対主義と啓蒙主義の影響を大きく受けていた。
フリードリヒ大王の時代には、プロイセンは、啓蒙主義的な、改革を推進する進歩的な国だった。
啓蒙主義的改革の刺激はその後も生じ続けたものの、しかし同時に停滞状態に陥ってもいた。
近代化に至ることはなく、封建的な自律状態が存続したままだったのである。
プロイセンの改革は啓蒙主義を追い抜いて、カント哲学という土台の上に立っている。
命令と服従を超え、単なる伝統を超えて、人間が自身の内面に導かれつつ、
純然たる自己の利害や啓蒙主義の功利主義的モラルや幸福モラルを超えて、
善と義務とを志向することである。
啓蒙主義から離れて、理想的、観念的な哲学に転じたことで、
プロイセンの諸改革はフランスのモラルに対して、一定度の距離を取ることになり、
イギリスモデルのほうを好むことになる。
アダム・スミスの自由主義的な経済理論、すなわち、
個人の経済活動の自由化と競争こそが、個人のエゴイズムこそが、
経済の繁栄と、公益を促進するという信念が、哲学と並ぶ位置を占めた。