投稿

12月, 2024の投稿を表示しています

ブルジョアジーとキリスト教の関係

ブルジョアジーとキリスト教の関係は、歴史的に対立と調和を繰り返してきました、 中世ではカトリック教会が富の蓄積を否定し商業活動を制限しました。 しかし中世末期に商業で台頭したブルジョアジーは、 教会と対立しつつ力を伸ばします。 16世紀の宗教改革では、カルヴァン派が勤勉と蓄財を肯定し、 ブルジョアジーの経済活動に正当性を与えました。 これが資本主義発展の基盤となったと、 マックス・ウェ━バ━は指摘しています。 近代以降は合理主義が広まり、ブルジョアジーは宗教から離れつつも、 福祉活動などで教会と連携する例もあります。 現代では地域によって関係は多様化しています。

フリーメーソンと自然宗教

当時のフランスのブルジョアジーの多くは、 ヴォルテールの影響をうけてキリスト教から離れ、 概して「自然宗教」のほうに惹かれていた。 この「自然宗教」はフリー・メーソンによってもまた唱導されており、 その無味乾燥な欠点はルソーの感情的吐露によって緩和されていた。

ブルジョアジーとネッケル

ブルジョアジーはネッケルに期待をかけていた。

階層

ジロンド派にはカルヴァン派の銀行家がいる。 大商人、製造業者は強硬な保護貿易論者である。 手工業者は資本主義に敵対的であった。 手工業者のなかには、マニュファクチャーとの競争によって脅かされ、 大商人の下請けとして働かざるをえなくなり、 賃金労働者の境遇へ転落した人たちがいるからである。 後にサン・キュロットの供給源となるのが、この階層である。 サン・キュロットとは貧困層である。

ブルジョアは豪華趣味

ナポレオン3世の時代のパリの大改造は、ブルジョアジー出身のオスマンが担っている。 パリのオペラ座の豪華趣味の装飾は、ブルジョアの美意識に迎合したものになっている。 カルヴァン派は禁欲的であるらしいのですが、ブルジョアは豪華趣味なのですね。 だからブルジョア即カルヴァン派ではないのかもしれません。 時代から見ても、ブルジョアは宗教改革以前から存在します。 ただ資本主義の形成、ブルジョア革命とカルヴァン派の革命の類似を見ると、 両者が関係あるのか無いのかは、まだ僕には理解できないところです。 マルクスはピューリタン革命をブルジョア革命だと考えているのかもしれませんが、 ピューリタンはカルヴァン派ですものね。

ブルジョアジーによる搾取

15、16世紀には、地理的大発見と植民地開拓と恒常的金欠に悩む、 王制の財政的措置に刺激されて、 ブルジョアジーが資本主義の発展とリズムを共にしながら飛躍の道を辿り、 18世紀になると、金融と商業・工業の先頭に立って、 国家の前進と行政に必要な資金を王政府に提供するまでになる。 そのなかで貴族階級の役割は絶え間なく縮小していったが、 それでも彼らが社会的ヒエラルキーの第一位にあることは変わりなかった。 しかし、貴族階級がカーストのなかで硬直化していったのに対し、 ブルジョアジーは、数においても、経済力と文化や知識においても重要性を増し、 そうした社会的・経済的現実を背景に野心を増大させていったから、 法と制度の運用に携わる貴族階級と必然的に真っ向からぶつかりあった。 フランスにとって19世紀はじめは、勝ち誇るブルジョアジーの時代であり、 名士たちは『国家』を自分たちの法を尊重させるために作られた、 いわば『ブルジョアジーの特典』の防壁のように考えた。 ブルジョアたちは、自由競争の資本主義に乗って、 良心の咎めも後ろめたさもないまま、庶民階層からの搾取の上に自らの富を築く。 田舎の日雇労働者や小作人、土地を持たない小農民、さらには工房の職人や、 生まれつつあった大工業の労働者にとって、 生活は18世紀の父親たちのそれよりも悪くなっていた。 工場の労働者にとって「生きるとは、死なないでいることだ」。 プルードンは「私有財産━それは盗品に他ならない」と書く。

カルヴァン派による都市の乗っ取り

プロテスタントの教会の壁は、白い石の地肌のままである。 すべてが収斂していく聖域の奥には、装飾を施した祭壇ではなく、 台所のテーブルのような粗末な木製のテーブルがあるだけである。 その上には十字架も燭台も聖なるパンを入れた聖櫃も載っていない。 知的活動に熱心なリヨンは、プロテスタントたちに対しても とりわけ好意的であった。 プロテスタントたちは、1560年、即位したシャルル9世が幼く、 権力が弱体化したのに乗じて、ジュネーブと同じように、 リヨンの町を自分たちのものにしようとしたが、この陰謀は失敗し、 都市は厳しい監視下に置かれた。 それでもリヨンはカルヴァン主義者たちの避難所であった。 1561年、ふたたび暴動が起き、1562年には二つの教会が、 その守っている聖遺物ごと焼かれ、 新教徒の新しい礼式にしたがった説教と洗礼が行われはじめた。 国王がリヨンを「奪還」したのは1563年で、これ以降、 カトリックと新教徒のそれぞれ6人、計12人から成る助役たちによって、 統治されるようになる。 カトリックとは、 「人々の信仰の努力よりも秘蹟の儀式を重んじ、 仰々しい祭儀によって大衆の心を惹きつける宗教」である。

北フランスと南フランスの戦い、アルビジョア十字軍

『アルビジョア戦争』は、北フランスと南フランスの決戦であって、 宗教的対決は表向きの口実に過ぎなかった。 この戦争は、カタリ派というさほど大きくもない一つの宗派の根絶を口実にして、 フランスで最初に真の自由を謳歌真実の輝きを放ち、 真の宗教の道を探求した南フランスという地方を、 その後長く衰弱させるために行われた戦いだったのである。

ロマネスク芸術とゴシック芸術、クリュニー修道会とシトー修道会

『ロマネスク芸術』の普及に主役を演じたのがクリュニー修道会であったのに対し、 『ゴシック芸術』において、重要な役割を果たしたのがシトー修道会である。 1150年ごろに全盛期を迎えた『ロマネスク芸術』と、 12世紀にそれを引き継ぎ、14世紀末まで続いた『ゴシック芸術』は、 年代学的にも地誌学的にも、切り離して捉えることはできない。 シトー会の厳格さは、この修道会に属するあらゆる建築にも表れている。 塔もポーチも造られず、建物を飾る彫刻も派手な彩色ガラスも排除された。 金色を仰々しく用いた絵で飾られたクリュニーの教会とは逆に、 シトー会の聖域は、白い石のままである。 しかし、この修道会も、発展拡大につれて、当初の厳格さを失っていった。 ロマネスクのフランスが封建制の多様性と結びついていたのに対し、 ゴシックのフランスはカペー的な中央集権制の刻印を帯びている。 北フランスで生まれたゴシック芸術は、13世紀じゅうに南フランスを征服した。 この同じ時期、『アルビジョア十字軍』を経て、 カペーの政治的権力が南仏に根をおろした。

テロリスト、無政府主義者、対、王党派

兵士たちは平穏な一般市民を脅かす、 テロリストや無政府主義者として告発された。 これに対し、兵士たちは自分たちが王党派から、 攻撃されていると主張した。

圧政への抵抗と法の遵守

フランス革命の1989年の人権宣言では、 圧政への抵抗が表明されていた。 1993年憲法では、圧政への抵抗を、 最も神聖な権利、最も不可欠な義務であると、 定義することで、さらに先へと進んだ。 1995年憲法は、圧政への抵抗を削除して、 法の遵守が主張された。

ブルジョアジーとカルヴァン派の関係

(ピュウリタン革命において)、 1648年にはブルジョアジーは、近代的貴族と結んで、 王権、封建貴族ならびに支配的教会と闘った。 (フランス革命において)、 1789年にはブルジョアジーは、人民と結んで、 王権、貴族ならびに支配的教会と闘った。 ↓ マルクスの語る、ブルジョアジーとは、 カルヴァン派のことと理解して良いのだろうか?

ジャコバン派は共産主義に影響を与えている。

かつては(フランス革命の)、 ジャコバン党員とよんでいた者を、 今日ではひとは共産主義者とよぶ、 とエンゲルスは言明している。 ↓ ジャコバン派とカルヴァン派と共産主義の関係は、 フランス革命で理解しにくい点の1つだと思います。

ピューリタン革命でも、カルヴァン派は君主政を倒している。

「カルヴァン派の信者は、しばしば君主政に対して批判的な立場を取ることがありました。 特に、イギリスのピューリタン革命(清教徒革命)では、 カルヴァン派の信者が中心となって君主政に反対し、共和政を樹立しようとしました。 この革命は、1642年から1651年にかけて行われ、 最終的には君主政が復活しましたが、カルヴァン派の影響力は大きかったです。 カルヴァン派の教義は、個人の信仰と倫理を重視するため、 君主政の絶対的な権力に対して批判的な視点を持つことが多かったのです。」 「ピューリタニズム(清教主義)とは、16~17世紀のイギリスで、 宗教改革を徹底して信仰を純化しようとしたプロテスタント(カルヴァン派)の一派。 信仰を浄化することをピューリファイというが、 カルヴァン派の考えではイギリス国教会の 宗教改革 は、 教会から浄化し、「清く」するには不十分だった。」 「ルイ16世の処刑から数週間の間、 フランスはイングランドやスペイン、オランダと交戦状態であった。 ヨーロッパ規模の同盟が成立し、それは後に、第一次対仏大同盟と名付けられた。」 「ジロンド派はジャコバン派を「アナーキスト」で「水平派(レヴェラーズ)」だと攻撃した。」 水平派(レヴェラーズ)は、キリスト教のプロテスタントの一教派で、 清教徒革命(イングランド内戦)期のイングランド王国および イングランド共和国で活発な動きを見せた急進的ピューリタンの一派である。 急進的社会改革を主張し大衆や軍に浸透、彼等と連動して改革実現を目指したが、 危険視した政府と軍首脳部に弾圧され衰退した。 ↓ カトリック、君主政のスペインが、ルイ16世の処刑に反対するのは理解できるのですが、 カルヴァン派の影響の強いイギリスとオランダがそこに加わっている仕組みはわかりません。 イギリスでもカルヴァン派が君主政に反対した、ということなので、 イギリス、オランダもカルヴァン派の一枚岩ではない、ということなのでしょうか? フランス革命勢力も、左翼も含めて、いろいろな立場があるようなので、 まだまだ理解するまでは、僕の研究が足りないようです。 いろいろな立場という視点を一つ付け加えると、 フランスのカトリックも、司教と司祭の上下関係(ヒエラルキー)は厳しく、 司教は貴族的、司祭は民衆に近かった、という違いはあったらしいです。

カトリック教会と君主政の敵

カトリック教会と君主政の敵は、 理神論者、自由思想家(リベルタン)、詐欺師、ユダヤ人とプロテスタントである。 ↓ フランス革命は、ユダヤ人(最初はセファルディム、後にアシュケナージ)の信仰を認めます。 大雑把に言って、セファルディムとはアジア系、 アシュケナージとは白人のユダヤ人を指します。 アシュケナージは、ハザール王国という改宗国家の末裔であり、 旧約聖書のユダヤ人とは、血がつながっていない、という主張もあります。 「ヘブライの館」「ハザール王国とユダヤ人」より http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fha200.html 「平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図」より https://blog.goo.ne.jp/efraym/e/ea3f3bdad01ee3815ed50aa18b8d9b8b 「ヘプバーンはユダヤ人ですが、正しくは白系ユダヤ教徒のハザールの子孫で、 血統的なイスラエル12部族とは違います。 ただし、祭司レビだけは13部族としてハザールに赴いたので、 ここからレビの血を継承することになった。」 プロテスタント(恐らくはカルヴァン派)の都市が、 ユダヤ人と近く、リベラルである、という特徴が、 フランス革命にも影響を与えているのかもしれません。 「理神論とは、神の存在を啓示によらず合理的に説明しようとする立場。 理神論は啓蒙時代に流行した。17世紀のスピノザらを起源として、イギリスで論争が起こり、 18世紀のフランス・ドイツの啓蒙思想家(フィロゾーフ)たちに受け継がれ、 フランス革命期の「最高存在の祭典」の思想的背景になった。」