クラシック音楽について
ルネサンス音楽は、パレストリーナによって最高峰を極めます。
パレストリーナが亡くなったころに、大まかに1600年ごろ、
イタリアのフィレンツェで、ルネサンスの流れに影響を受けて、オペラが誕生します。
その代表者はモンテヴェルディです。
ただし、ルネサンス(ギリシア、ローマ文化の復興)とは言うものの、
ギリシア・ローマ文化の楽譜は残っておらず、
モンテベルディのオペラの様式は全く新しい物だったそうです。
フィレンツェで始まったオペラは、ヴェネツィアで大衆化し普及します。
モーツァルト、ベートーベンの時代でも、
ヨーロッパでは、イタリアのオペラが主流であり、
ベートーベンの時代でも、ロッシーニのほうが有名であったそうです。
モーツァルトの後期のオペラ「魔笛」などは、
ドイツ語でオペラを作りたいという動機もあったそうです。
ドイツ語のオペラは後年、ウェーバーによって「魔弾の射手」が生み出され、
本格的に始まったとされています。
その後、歌うイタリア、器楽のドイツ、という構図がクラシック音楽の基本構図です。
モーツァルトのオペラは、ウィーンでよりも、むしろチェコのプラハで愛好され、
晩年、モーツァルトはウィーンでは忘れられた存在でありました。
モーツァルトは奔放な天才肌の音楽家として知られていて、
確かにあふれ出るように旋律が生み出されていったようですが、
結婚するまでは女性関係もなく、残された手紙も音楽とお金の話ばかり。
お金についても、妻のための遊興に使ったという説が主流ですが、
病弱だった妻の保養地での療養のために使い果たした、という説もあり、
私の印象では、ものすごく真面目な人だったという印象です。
ベートーベンはモーツァルトのオペラについて、
その音楽性は認めつつも、内容が軽薄だと否定したと言われています。
しかし、モーツァルトのオペラには、貴族に対する風刺もえがかれています。
ザルツブルグの大司教という上層階級とも対立したモーツァルトは、
反骨精神にあふれた、ストイックな芸術家として考えたほうが近いのではないか、と私は考えます。
ベートーベンの「第九」は人類愛について歌い、
階級社会に対する、プロテストの意味を持っています。
「不滅の恋人」は誰かという問題に関しては、
その答えが「自由の女神」なのではないか?という説もあります。
『秘密諜報員ベートーヴェン』という著作では、
ベートーベンの時代のもう一人の天才、ナポレオンによる、
ドイツとオーストリアに対しての影響が、
つまり、フランス革命の理念を普及させたナポレオンの勢力と、
ベートーベンがいかに密接であったかが分析されています。
ナポレオンの敗北とともにベートーベンの苦悩も深まっていきます。
ナポレオン敗北後のウィーン体制のもとで、
シューマン、シューベルトなどのロマン派による潮流が始まりますが、
ロマン派が内面に向かったのは、メッテルニヒによる保守的な社会体制に対して、
内にこもることで、想像力を解き放った、という見方もあります。
ウィーンでは、貴族の庇護のもと、芸術家たちが援助されていましたが、
音楽家とは、当時、召使と同様の立場だったそうです。
後年のパリでのサロン芸術(ドビュッシーなど)も、
金持ち(貴族、もしくはブルジョア)の庇護が主流だったそうです。
バッハ、モーツァルト、ベートーベンというクラシックを代表する時代では、
「市民」階級の台頭が顕著であり、貴族の邸宅内でのクラシックの愛好から、
コンサート会場でのチケット販売制度という、
金銭を通した人と物の交換という制度が少しずつ普及していきます。
バッハの時代は、啓蒙思想、百科全書思想が普及し始めたころで、
教会音楽家ではあったバッハですが、
暴力沙汰を起こしたり、拘禁されたりもされたことのある、
芯のしっかりした人だったそうです。
バッハの有名な「トッカータとフーガ」は、
トッカータ「想像力」とフーガ「形式」の両面を持つ、芸術の現れでした。
ブラームスはロマン派において、ワーグナーと対立する、「古典的」な芸術家でしたが、
彼にも、バッハの「パッサカリア」という形式を継承した作品があります。
同じくロマン派のワーグナーは、
ベートーベンの曲を指揮するにあたっては「絶叫」することが必要だと語りました。
ベートーベン自身の演奏も、楽器を破壊したこともあるほど激しい弾き方だったと言われています。
ロマン派の標題音楽は、ベートーベンの交響曲第六番「田園」という題名から始まったとされています。
ロマン派の音楽家たちは、音楽に文学的な説明を加えるなど、詩的、内面的、な性格を持っています。
芸術家の恋を歌う、ベルリオーズの「幻想交響曲」、
ゲルマン精神を歌うワーグナーの「楽劇」、などがその代表と言えましょうか。
バッハは「マタイ受難曲」などの宗教曲が有名ですが、
百科全書的な性格も持ち、対位法、フーガという形式において、
幾つかの旋律を重ねていくことの天才であったようです。
啓蒙専制君主、フリードリヒ2世(プロイセン王)に、
バッハが「音楽の捧げもの」という作品を捧げていることを見ても、
バッハが単純に宗教的なわけでもなく、「啓蒙」主義との関係を考える余地があるのではないでしょうか。
ベートーベンにも尊敬されたヘンデルは(バッハと同年に生まれています)、
ドイツのハノーファー選帝侯の宮廷楽長となりましたが、
その職についたままイギリスに渡っています。
その理由として、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになる、
そのドイツ人としてのイギリスでの違和感を、和らげるための工作が、
ヘンデルに与えられた役目だったのではないか?という説もあります。
イギリスとい国は、ドイツ、オーストリアで不遇だった芸術家、思想家を迎え入れる、
という性格を持つのかもしれません。
ハイドン、マルクス、フロイトなどはイギリスに渡っています。
https://www.worldfolksong.com/classical/beethoven/minyo.html
18世紀頃のイギリスは、ハイドン、ヘンデル、モーツァルトといった
ドイツ・オーストリア系の作曲家らと積極的に交流を深めており、
ドイツの作曲家であるベートーヴェンもイギリスの音楽関係者と度々やりとりをしている。
ベートーヴェンとイギリスとの音楽的な交流で特に有名な作品としては、
ロンドンのフィルハーモニック協会から依頼された『交響曲第9番』があるが、
ここではベートーヴェン作品としては若干マイナーな
イギリス民謡・国歌の編曲・変奏曲集について触れていきたい。
なお、歴史的にはフランス革命戦争(1792-1802)とナポレオン戦争(1803-1815)が関連している。
パレストリーナが亡くなったころに、大まかに1600年ごろ、
イタリアのフィレンツェで、ルネサンスの流れに影響を受けて、オペラが誕生します。
その代表者はモンテヴェルディです。
ただし、ルネサンス(ギリシア、ローマ文化の復興)とは言うものの、
ギリシア・ローマ文化の楽譜は残っておらず、
モンテベルディのオペラの様式は全く新しい物だったそうです。
フィレンツェで始まったオペラは、ヴェネツィアで大衆化し普及します。
モーツァルト、ベートーベンの時代でも、
ヨーロッパでは、イタリアのオペラが主流であり、
ベートーベンの時代でも、ロッシーニのほうが有名であったそうです。
モーツァルトの後期のオペラ「魔笛」などは、
ドイツ語でオペラを作りたいという動機もあったそうです。
ドイツ語のオペラは後年、ウェーバーによって「魔弾の射手」が生み出され、
本格的に始まったとされています。
その後、歌うイタリア、器楽のドイツ、という構図がクラシック音楽の基本構図です。
モーツァルトのオペラは、ウィーンでよりも、むしろチェコのプラハで愛好され、
晩年、モーツァルトはウィーンでは忘れられた存在でありました。
モーツァルトは奔放な天才肌の音楽家として知られていて、
確かにあふれ出るように旋律が生み出されていったようですが、
結婚するまでは女性関係もなく、残された手紙も音楽とお金の話ばかり。
お金についても、妻のための遊興に使ったという説が主流ですが、
病弱だった妻の保養地での療養のために使い果たした、という説もあり、
私の印象では、ものすごく真面目な人だったという印象です。
ベートーベンはモーツァルトのオペラについて、
その音楽性は認めつつも、内容が軽薄だと否定したと言われています。
しかし、モーツァルトのオペラには、貴族に対する風刺もえがかれています。
ザルツブルグの大司教という上層階級とも対立したモーツァルトは、
反骨精神にあふれた、ストイックな芸術家として考えたほうが近いのではないか、と私は考えます。
ベートーベンの「第九」は人類愛について歌い、
階級社会に対する、プロテストの意味を持っています。
「不滅の恋人」は誰かという問題に関しては、
その答えが「自由の女神」なのではないか?という説もあります。
『秘密諜報員ベートーヴェン』という著作では、
ベートーベンの時代のもう一人の天才、ナポレオンによる、
ドイツとオーストリアに対しての影響が、
つまり、フランス革命の理念を普及させたナポレオンの勢力と、
ベートーベンがいかに密接であったかが分析されています。
ナポレオンの敗北とともにベートーベンの苦悩も深まっていきます。
ナポレオン敗北後のウィーン体制のもとで、
シューマン、シューベルトなどのロマン派による潮流が始まりますが、
ロマン派が内面に向かったのは、メッテルニヒによる保守的な社会体制に対して、
内にこもることで、想像力を解き放った、という見方もあります。
ウィーンでは、貴族の庇護のもと、芸術家たちが援助されていましたが、
音楽家とは、当時、召使と同様の立場だったそうです。
後年のパリでのサロン芸術(ドビュッシーなど)も、
金持ち(貴族、もしくはブルジョア)の庇護が主流だったそうです。
バッハ、モーツァルト、ベートーベンというクラシックを代表する時代では、
「市民」階級の台頭が顕著であり、貴族の邸宅内でのクラシックの愛好から、
コンサート会場でのチケット販売制度という、
金銭を通した人と物の交換という制度が少しずつ普及していきます。
バッハの時代は、啓蒙思想、百科全書思想が普及し始めたころで、
教会音楽家ではあったバッハですが、
暴力沙汰を起こしたり、拘禁されたりもされたことのある、
芯のしっかりした人だったそうです。
バッハの有名な「トッカータとフーガ」は、
トッカータ「想像力」とフーガ「形式」の両面を持つ、芸術の現れでした。
ブラームスはロマン派において、ワーグナーと対立する、「古典的」な芸術家でしたが、
彼にも、バッハの「パッサカリア」という形式を継承した作品があります。
同じくロマン派のワーグナーは、
ベートーベンの曲を指揮するにあたっては「絶叫」することが必要だと語りました。
ベートーベン自身の演奏も、楽器を破壊したこともあるほど激しい弾き方だったと言われています。
ロマン派の標題音楽は、ベートーベンの交響曲第六番「田園」という題名から始まったとされています。
ロマン派の音楽家たちは、音楽に文学的な説明を加えるなど、詩的、内面的、な性格を持っています。
芸術家の恋を歌う、ベルリオーズの「幻想交響曲」、
ゲルマン精神を歌うワーグナーの「楽劇」、などがその代表と言えましょうか。
バッハは「マタイ受難曲」などの宗教曲が有名ですが、
百科全書的な性格も持ち、対位法、フーガという形式において、
幾つかの旋律を重ねていくことの天才であったようです。
啓蒙専制君主、フリードリヒ2世(プロイセン王)に、
バッハが「音楽の捧げもの」という作品を捧げていることを見ても、
バッハが単純に宗教的なわけでもなく、「啓蒙」主義との関係を考える余地があるのではないでしょうか。
ベートーベンにも尊敬されたヘンデルは(バッハと同年に生まれています)、
ドイツのハノーファー選帝侯の宮廷楽長となりましたが、
その職についたままイギリスに渡っています。
その理由として、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになる、
そのドイツ人としてのイギリスでの違和感を、和らげるための工作が、
ヘンデルに与えられた役目だったのではないか?という説もあります。
イギリスとい国は、ドイツ、オーストリアで不遇だった芸術家、思想家を迎え入れる、
という性格を持つのかもしれません。
ハイドン、マルクス、フロイトなどはイギリスに渡っています。
https://www.worldfolksong.com/classical/beethoven/minyo.html
18世紀頃のイギリスは、ハイドン、ヘンデル、モーツァルトといった
ドイツ・オーストリア系の作曲家らと積極的に交流を深めており、
ドイツの作曲家であるベートーヴェンもイギリスの音楽関係者と度々やりとりをしている。
ベートーヴェンとイギリスとの音楽的な交流で特に有名な作品としては、
ロンドンのフィルハーモニック協会から依頼された『交響曲第9番』があるが、
ここではベートーヴェン作品としては若干マイナーな
イギリス民謡・国歌の編曲・変奏曲集について触れていきたい。
なお、歴史的にはフランス革命戦争(1792-1802)とナポレオン戦争(1803-1815)が関連している。