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大統領と議員

フランスの投票が、国民議会の場合には750人の議員に分散しているのに、 直接選挙の大統領の場合には1人の個人に集中している。 国民議会の国民に対する関係は、抽象的なものであるが、 大統領の国民に対する関係は個人的なものである。

1848年の革命

第1次フランス革命とさかさなのが1848年の革命である。 プロレタリア党は小ブルジョア的民主党のつけたりとしてあらわれる。 プロレタリア党は小ブルジョア的民主党によってうらぎられ、見すてられる。 この民主党の方はブルジョア共和党の肩によりかかる。 ブルジョア共和主義者は自分でしっかりたてると思うようになるやいなや、 厄介な戦友をふりすてて自分は秩序党の肩によりかかる。 すると秩序党は肩をひき、ブルジョア共和主義者をひっくり返らせておいて、 武装権力の肩に身を投ずる。 かれらは自分がまだ肩のうえにいると思っていると、 ある晴れた朝、肩が銃剣になってしまっているのに気がつく。 こうして革命は下向線をえがいてすすむ。

第1次フランス革命

第1次フランス革命では立憲派の支配のあとにジロンド派の支配が、 ジロンド派のあとにジャコバン派の支配がつづいた。 これらの党派は、いずれも自分よりももっと進歩的な党を頼りにした。 どの党も、革命をせいいっぱいに指導したあげく、 ついに、もはやそれ以上革命について行けず、 ましてそのさきにたってすすむことは尚更できなくなるやいなや、 すぐうしろにたつ、もっと大胆な同盟者によっておしのけられ断頭台におくられる。 こうして革命は上向線をえがいてすすむ。

憲法の自由とはブルジョアジーだけのもの

憲法関係法は、秩序の友たちの手によって生みだされたが、 そこではかのすべての自由は、ブルジョアジーがこれらの自由を享受するにさいし、 他の階級の同一の権利のためにじやまされない、というように調整されていた。 彼らが「他のもの」に対してこれらの自由を全く禁止するか、 あるいはそれの享受を警察のわなとすこしもかわらない諸条件のもとでゆるすかする場合も、 それはつねに憲法の規定どおりただ「公共の安全」(つまりブルジョアジーの安全) のためにのみ、おこなわれたことなのである。 憲法の条項も、本文の一般的文言では自由を、 但書きでは自由の廃止を、ふくんでいるのである。

ネッケルの立ち位置が理解しにくい。

ネッケルについていえば、彼は自分の人気がしだいに衰え、 銀行家たちとの緊密な協定にもとづいた、 その財政政策が愛国派によって非難されていることを知っていた。 議会が金融業者の満足できない借り入れ金の利子の利率しか認めず、 その結果、この起債は失敗に終わった。 起債の失敗の責任はネッケルに負わせようとされた。 ネッケルは国王の意思を左右しうる立場にいなかった。 ネッケルにたいして、食料の買い占め人たちの共犯者であるとして、 激烈な攻撃の論陣がはられていた。

直接民主主義と議会制民主主義の違い

人権および市民権の宣言は、直接民主主義的な文面を含んでいたが、 国民議会は代表制的な統治機構を組織し、 立法府が国のほとんど絶対的な主人であった。 ただし、フランス革命はアンシャン・レジームに対しては革命的であり、 貴族の免税特権に対しての「租税の仕組み」の改革だけでなく、 聖職者、貴族の「所有」に対して、その撤廃を行った。

穀物取引の自由と規制

穀物取引の自由は、貧民の貧窮を食いものにして、 富む者すべてに与えられた犯罪的な白紙委任とみなされていた。 そして、かりに重農主義的経済理論家の主張が正しいにしても、 農業の発展が土地所有者と大商人の利益となり、 その反対に、貧民が少なくとも当座は発展の全犠牲を払ったことは明白である。 当時の経済理論家は、この不幸は神の摂理によるものと考えており、 社会進歩は貧民を犠牲にしてのみ実現が可能であると、率直に認めていた。 他方、民衆は、働く限り生存できるべきであり、 パンの価格は賃金と釣り合うべきであると考えた。 パン屋に安くパンを売らせ、週市では穀物を赤字承知で払い下げ、 その補償や穴埋めに必要な金は富裕者から徴収すべきであると、彼らは考えた。 流通の規制、徴発や価格統制など規制を厳重に施行するべきだと、彼らは考えた。