十八史略の人物学より10
論語に「民は之を由らしむべし。知らしむべからず」とあるが、
これほど間違って伝えられた言葉はない。
「民衆というものは愚かなもので、言って聞かせてみたところで事理のわかるものではない。
それよりは、手っ取り早く、何も知らせず、威をもって服従させればよい」というふうに誤伝されてきた。
いわば、封建時代の独裁君主の専制の口実として利用されてきた。
しかし、意味は全く違うのである。
これは「為政者というものは、民から万幅の信頼を寄せられることが何よりも肝要だ。
複雑に入り組んだ政治の実体を民に理解させるのは、本来とても難しいことなんだから…」の意味である。
なるほど、民衆はなかなか事理を悟らない。それで政治は、ある具体的な形を民衆に示して、
それに従うようにさせるのが一番である。そのあるものとは何か?
まず、指導者が身をもって模範を示し、そのあと、俺についてこいということである。
孔子と子貢との問答。「サムライとは、いかなる人物をいうのでしょうか」。
孔子は言う。「第一に自分の行動に責任を持ち、恥を知っている人物であること。
さらに近隣の国々に使いして、君主の命令を完全に果たし、
国家の名をはずかしめない人物であれば士ということができよう」子貢はその次の人物を問う。
孔子は言う。「人間は、ちょっと小金を貯めたり、地位があがると、
肩で風をきって威張ってみたくなるものである。驕慢になるのだ。
ところが、そういったところが全くなく、一家一族の連中が、
あの人は本当によくつくしてくれると誉める人物、また郷土の人たちが、
誰しも、あの人は奥床しい人だと賞賛する人物が第二等の士である」これもなかなかむつかしい。
子貢はその次のサムライを聞く。孔子は言う。「自ら言った言葉は必ず真実であり、
物事を実行するにあたっては、とことんまでやりとげる、という人物であれば、
ま、第三等のサムライといえよう。
ただし、この種の人物は道ばたにころがっている石ころみたいにコチコチで融通がきかぬから、
しばしばやることがぎくしゃくするよ」
子貢は尋ねる。「しからば、現代の政治家はどうでしょうか」孔子は言う。
「器量が小さくて十把ひとからげの連中ばかりだ。お話にならん」
…この問答から「知識」と「見識」と「胆識」について考えさせられる。
本来、知識などは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られる。
学校へいって講義を聞いているだけでも、あるいは参考書を読むだけでも身につけられる。
しかし、これは人間の信念とか、行動力にはならない。
事に当たって「この問題はこう処置しよう」と判断するのは、人格、体験とそれから得た原理原則である。
それが見識である。…ところが、見識だけでは未だしだ。どうしても反対がでる。
いや、見識が高ければ高いほど、低俗な輩が反対する。
それらの反対、妨害を断乎として排除し、実行するのが胆識である。
これほど間違って伝えられた言葉はない。
「民衆というものは愚かなもので、言って聞かせてみたところで事理のわかるものではない。
それよりは、手っ取り早く、何も知らせず、威をもって服従させればよい」というふうに誤伝されてきた。
いわば、封建時代の独裁君主の専制の口実として利用されてきた。
しかし、意味は全く違うのである。
これは「為政者というものは、民から万幅の信頼を寄せられることが何よりも肝要だ。
複雑に入り組んだ政治の実体を民に理解させるのは、本来とても難しいことなんだから…」の意味である。
なるほど、民衆はなかなか事理を悟らない。それで政治は、ある具体的な形を民衆に示して、
それに従うようにさせるのが一番である。そのあるものとは何か?
まず、指導者が身をもって模範を示し、そのあと、俺についてこいということである。
孔子と子貢との問答。「サムライとは、いかなる人物をいうのでしょうか」。
孔子は言う。「第一に自分の行動に責任を持ち、恥を知っている人物であること。
さらに近隣の国々に使いして、君主の命令を完全に果たし、
国家の名をはずかしめない人物であれば士ということができよう」子貢はその次の人物を問う。
孔子は言う。「人間は、ちょっと小金を貯めたり、地位があがると、
肩で風をきって威張ってみたくなるものである。驕慢になるのだ。
ところが、そういったところが全くなく、一家一族の連中が、
あの人は本当によくつくしてくれると誉める人物、また郷土の人たちが、
誰しも、あの人は奥床しい人だと賞賛する人物が第二等の士である」これもなかなかむつかしい。
子貢はその次のサムライを聞く。孔子は言う。「自ら言った言葉は必ず真実であり、
物事を実行するにあたっては、とことんまでやりとげる、という人物であれば、
ま、第三等のサムライといえよう。
ただし、この種の人物は道ばたにころがっている石ころみたいにコチコチで融通がきかぬから、
しばしばやることがぎくしゃくするよ」
子貢は尋ねる。「しからば、現代の政治家はどうでしょうか」孔子は言う。
「器量が小さくて十把ひとからげの連中ばかりだ。お話にならん」
…この問答から「知識」と「見識」と「胆識」について考えさせられる。
本来、知識などは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られる。
学校へいって講義を聞いているだけでも、あるいは参考書を読むだけでも身につけられる。
しかし、これは人間の信念とか、行動力にはならない。
事に当たって「この問題はこう処置しよう」と判断するのは、人格、体験とそれから得た原理原則である。
それが見識である。…ところが、見識だけでは未だしだ。どうしても反対がでる。
いや、見識が高ければ高いほど、低俗な輩が反対する。
それらの反対、妨害を断乎として排除し、実行するのが胆識である。