十八史略の人物学より14
司馬遼太郎は次のように言う。 「武士の悲しみとは、合戦のつど、妻子と死別を覚悟せねばならぬことではなく、 常に旗幟をあきらかにせねばならぬところにある。 旗幟をあきらかにするというのは、得体のしれぬ未来に向かって、 自己を主家の運命と賭博に投ずることなのである」。 まさしく、トップの意思決定もそういうものである。もともと、経営をやるのはトップであって、 決して、副社長でも、専務でも、あるいは労働組合の幹部でもない。 社長の決断こそは、「一人によって国は興り、一人によって国は亡びる」という結果になる。 そこに「行為する者」の厳しさがあるのだ。ところが「行為せざる者」の立場にあるジャーナリストは、 もともと、うぬぼれの強い人種だから、政治や経営について書いているうちに、 現実と論理との境界がわからなくなり、「俺だって「行為する者」になれる」という錯覚を起こす。 「国会議員になると、国鉄のグリーン兼のパスがもらえる。 そのパスで、初めてグリーン車に乗ったときは、いかに国家の選民とはいえ、 俺だけが自由にただで乗っていいのだろうか、と思った。 ところが、何度も乗っているうちに、グリーン車の席があいていないと不愉快な気持ちになった。 権力というものは恐ろしいものですね」。実に些細な実例だが、精神が堕落してゆく断面を浮き彫りにしている。 「政治における最悪の態度は決定を行いえない態度であり、 さらに悪いのは、相矛盾する決定を行うことである」。 国の指導的地位にある人間が、事に当たって明確なる決定を行う勇気に欠け、 部下から、あるいは国民から、その軽重を問われるようなことがあると、 それは本人の不幸であるばかりでなく、国家を滅亡へ追いやることになる。