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十八史略の人物学より13

とある日本の総理大臣は「総理になると、三つのものが見えなくなる」と言っている。 第一に「金」である。総理は職権で存分に金が使えるから、金の価値がわからなくなる。 第二に「人」である。しらずしらずのうちに取り巻きができて、 総理の耳にさからう情報は入ってこなくなる。 第三に「国民の顔」がどちらを向いているのかわからなくなる。 そして「この三つめがわからなくなったときに、総理大臣はのたれ死にする」と言いきっている。 それを予防するためには「すぐれたジャーナリストを絶えず傍に置くこと」である。 つまり、総理たるものは、フォーマルな情報網だけでは不十分で、 インフォーマルな情報網をもっていないと判断を誤るということである。 …玉ねぎは八百屋の店先で見ると、外側が赤茶けたり、泥がついている。 それが玉ねぎなんだ。ところが、その玉ねぎを部下が係長や課長にあげるおきは、 泥のついた赤茶けた皮をむいて、これが玉ねぎだと言って見せる。 そして、課長が、この玉ねぎを部長に見せるときは、また二皮ばかり向いて見せる。 それと同じく部長も皮をむいてくるから、社長のところへくる玉ねぎは、 中の芯だけの小さなものになっている。それを「玉ねぎでございます」と言われて、 まるまる信じたら、とんでもない間違いをやらかすことになる。 では、なぜ優秀なジャーナリストを傍に置くといいのか。 それはジャーナリストは「時代と社会」とに密着しているから、世間の実態を吸収できるからである。 これをどう使うかは、ひとえにトップの器量だが、 もちろんジャーナリストの限界も心得ていないと、とんでもないことになる。 それは「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である」ということだ。 政治家とか、経営者とかは「行為する者」であり、ジャーナリストは「行為せざる者」である。 「行為せざる者」は火の粉をかぶったことがないから、 火の粉をかぶって「行為する者」の痛みは絶対にわからない。 足を踏みつけている者に、踏まれている人間の痛みがわからぬのと同じだ。