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階層

ジロンド派にはカルヴァン派の銀行家がいる。 大商人、製造業者は強硬な保護貿易論者である。 手工業者は資本主義に敵対的であった。 後にサン・キュロットの供給源となるのが、 この階層である。 サン・キュロットとは貧困層である。

ブルジョアは豪華趣味

ナポレオン3世の時代のパリの大改造は、ブルジョアジー出身のオスマンが担っている。 パリのオペラ座の豪華趣味の装飾は、ブルジョアの美意識に迎合したものになっている。 カルヴァン派は禁欲的であるらしいのですが、ブルジョアは豪華趣味なのですね。 だからブルジョア即カルヴァン派ではないのかもしれません。 時代から見ても、ブルジョアは宗教改革以前から存在します。 ただ資本主義の形成、ブルジョア革命とカルヴァン派の革命の類似を見ると、 両者が関係あるのか無いのかは、まだ僕には理解できないところです。 マルクスはピューリタン革命をブルジョア革命だと考えているのかもしれませんが、 ピューリタンはカルヴァン派ですものね。

ブルジョアジーによる搾取

15、16世紀には、地理的大発見と植民地開拓と恒常的金欠に悩む、 王制の財政的措置に刺激されて、 ブルジョアジーが資本主義の発展とリズムを共にしながら飛躍の道を辿り、 18世紀になると、金融と商業・工業の先頭に立って、 国家の前進と行政に必要な資金を王政府に提供するまでになる。 そのなかで貴族階級の役割は絶え間なく縮小していったが、 それでも彼らが社会的ヒエラルキーの第一位にあることは変わりなかった。 しかし、貴族階級がカーストのなかで硬直化していったのに対し、 ブルジョアジーは、数においても、経済力と文化や知識においても重要性を増し、 そうした社会的・経済的現実を背景に野心を増大させていったから、 法と制度の運用に携わる貴族階級と必然的に真っ向からぶつかりあった。 フランスにとって19世紀はじめは、勝ち誇るブルジョアジーの時代であり、 名士たちは『国家』を自分たちの法を尊重させるために作られた、 いわば『ブルジョアジーの特典』の防壁のように考えた。 ブルジョアたちは、自由競争の資本主義に乗って、 良心の咎めも後ろめたさもないまま、庶民階層からの搾取の上に自らの富を築く。 田舎の日雇労働者や小作人、土地を持たない小農民、さらには工房の職人や、 生まれつつあった大工業の労働者にとって、 生活は18世紀の父親たちのそれよりも悪くなっていた。 工場の労働者にとって「生きるとは、死なないでいることだ」。 プルードンは「私有財産━それは盗品に他ならない」と書く。

カルヴァン派による都市の乗っ取り

プロテスタントの教会の壁は、白い石の地肌のままである。 すべてが収斂していく聖域の奥には、装飾を施した祭壇ではなく、 台所のテーブルのような粗末な木製のテーブルがあるだけである。 その上には十字架も燭台も聖なるパンを入れた聖櫃も載っていない。 知的活動に熱心なリヨンは、プロテスタントたちに対しても とりわけ好意的であった。 プロテスタントたちは、1560年、即位したシャルル9世が幼く、 権力が弱体化したのに乗じて、ジュネーブと同じように、 リヨンの町を自分たちのものにしようとしたが、この陰謀は失敗し、 都市は厳しい監視下に置かれた。 それでもリヨンはカルヴァン主義者たちの避難所であった。 1561年、ふたたび暴動が起き、1562年には二つの教会が、 その守っている聖遺物ごと焼かれ、 新教徒の新しい礼式にしたがった説教と洗礼が行われはじめた。 国王がリヨンを「奪還」したのは1563年で、これ以降、 カトリックと新教徒のそれぞれ6人、計12人から成る助役たちによって、 統治されるようになる。 カトリックとは、 「人々の信仰の努力よりも秘蹟の儀式を重んじ、 仰々しい祭儀によって大衆の心を惹きつける宗教」である。

北フランスと南フランスの戦い、アルビジョア十字軍

『アルビジョア戦争』は、北フランスと南フランスの決戦であって、 宗教的対決は表向きの口実に過ぎなかった。 この戦争は、カタリ派というさほど大きくもない一つの宗派の根絶を口実にして、 フランスで最初に真の自由を謳歌真実の輝きを放ち、 真の宗教の道を探求した南フランスという地方を、 その後長く衰弱させるために行われた戦いだったのである。

ロマネスク芸術とゴシック芸術、クリュニー修道会とシトー修道会

『ロマネスク芸術』の普及に主役を演じたのがクリュニー修道会であったのに対し、 『ゴシック芸術』において、重要な役割を果たしたのがシトー修道会である。 1150年ごろに全盛期を迎えた『ロマネスク芸術』と、 12世紀にそれを引き継ぎ、14世紀末まで続いた『ゴシック芸術』は、 年代学的にも地誌学的にも、切り離して捉えることはできない。 シトー会の厳格さは、この修道会に属するあらゆる建築にも表れている。 塔もポーチも造られず、建物を飾る彫刻も派手な彩色ガラスも排除された。 金色を仰々しく用いた絵で飾られたクリュニーの教会とは逆に、 シトー会の聖域は、白い石のままである。 しかし、この修道会も、発展拡大につれて、当初の厳格さを失っていった。 ロマネスクのフランスが封建制の多様性と結びついていたのに対し、 ゴシックのフランスはカペー的な中央集権制の刻印を帯びている。 北フランスで生まれたゴシック芸術は、13世紀じゅうに南フランスを征服した。 この同じ時期、『アルビジョア十字軍』を経て、 カペーの政治的権力が南仏に根をおろした。

テロリスト、無政府主義者、対、王党派

兵士たちは平穏な一般市民を脅かす、 テロリストや無政府主義者として告発された。 これに対し、兵士たちは自分たちが王党派から、 攻撃されていると主張した。